厭世的な旧約の書物?
こんにちは。
無常観は、仏教の中核的な観想の一つです。
そういえば、有名な平家物語の冒頭は、その思想を美しく格調高い文体であらわしていますね。
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれるものも久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
猛き者もついには滅びぬ
ひとえに風の前の塵に同じ
すべてのものは移り変わり、空しい――。
そして、それはきっと真実であると思います。
さて、仏教的無常観のほうが何となく有名な気がしてしまいますが、実は、キリスト教にも似たような観想があります。
キリスト教というと、もっと前向き!楽観的!というイメージがあるかと思いますが(それも本当ですけど)、やっぱり人生そう言ってばかりでもいられない時もあるものです。人にもよるのかもしれませんが。
キリストの受難と復活を信じていて、だから既にキリストはこの世に勝利していると知っていても、神は全能であり、最後にはすべてを正されるであろうことを信じていても、やはりこの世にある私たちの見る世の中は辛く、空しいものでもあります。
そして、それはまた、必ずしも神への信頼と矛盾するものではないのです。
今日は、そんな世界観を持つ旧約聖書の中の「コヘレトの言葉」(伝道者の書ともいう)について見てみたいと思います。
コヘレトの言葉
一章・二章
「空(くう)の空(くう)。伝道者は言う。
空(くう)の空(くう)。すべては空(くう)。
日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」(コヘレトの言葉1,2-4)
これが、コヘレトの言葉の始まりです。
空(くう)の空(くう)、と二回繰り返しています。抽象的な言い方ではありますが、強い厭世観が感じられます。
二章以下では、もう少し具体的なむなしさを謳っていきます。
まず二章においては、この世での名誉とされることや楽しみとされることについてです。
「私は心の中で言った。
さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」
しかし、これもまた、なんと空しいことか。」(コヘレトの言葉2,1ー以下同)
「・・・私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を作り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も作った。
私は男女の奴隷を得た。私には私より先にエルサレムにいた誰よりも、多くの牛や羊もあった。
私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。
私は、私より先にエルサレムにいた誰よりも偉大なものとなった、しかも、私の智恵は私から離れなかった。
・・・・・
しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてが空しいことよ。
風を追うようなものだ。日の下には何ひとつ益になるものはない。」(2,4-11)
「知恵あるものも愚かなものも、いつまでも記憶されることはない。
日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。
私は生きていることを憎んだ。日の下で行われることは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。
・・・・
一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。」(2,16-17)
風を追うようなもの――なんだか、「ひとえに風の前の塵に同じ」の一節みたいですね。
成功しても、さまざまなものを手にしても、すべては風のようなもの、すべては無常な消えゆくものなのに、私達人間の中には、永遠を望む心がある。むなしさは必然のように思えます。
三章
さて、三章は「時の詩」とも呼ばれ、特に有名で、美しい箇所です。
前二章までの厭世的な感じから、違う様相を帯びてきます。
「天の下では、何事にも定まって時期があり、
すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、
植えたものを引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。
くずすのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、微笑むのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、
石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、
抱擁を止めるのに時がある。
探すのに時があり、
失うのに時がある。
保つのに時があり、
投げ捨てるのに時がある。
引き裂くのに時があり、
縫い合わせるのに時がある。
黙っているのに時があり、
話をするのに時がある。
愛するのに時があり、
憎むのに時がある。
戦うのに時があり、
和睦するのに時がある。」(3,1ー8)
自身の無力感、そして無常な世の中への悲壮感は持ちつつも、それでもなおもっと大きな存在があることを感じているような転換、格調高い箇所です。
第四章
「私は再び、日の下で行われるいっさいのしいたげを見た。
見よ、虐げられている者の涙を。
・・・
私は、まだ命があって生きながらえている人よりは、すでに死んだ人の方に祝いを申し述べる。
また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。
私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。
これもまた、むなしく、風を追うようなものだ」(4,1ー4)
第三章時の詩を過ぎた第四章は、再び、日の下(この世)でのことについてです。一章、二章でのむなしさと少し性質の違うむなしさについて、さらに言及します。
一章二章は、すべて過ぎ去るこの世そのものに起因するむなしさでしたが、この四章ではさらに、人間同士の罪、しいたげや妬みについてのもの。それもまたむなしい。
そして次の五章では、それへ対応するような文が続きます。
五章
「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。・・・
神の前では、軽々しく、心あせって言葉を出すな。
神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、言葉を少なくせよ。
・・・・
私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。
所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。
その富は不幸な出来事で失われ、子供が生まれても、自分の手元には何もない。
母の胎から出てきたときのように、また裸で元のところへ帰る。
彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えていくことができない。
これも痛ましいことだ。
出てきた時と全く同じようにして去っていく。
風のために労苦して、何の益があるだろう。
しかも、人は一生、やみのなかで食事をする。多くの苦痛、病気、怒り。
見よ。私が良いと見たこと、好ましいことは、神がその人に許される命の日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。
実に神は、すべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。
これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯をくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」(5,1-20)
むなしさの上に神を畏れつつも、今度は、持っている者ですらむなしい、と説きます。
しかし、同時に、あらゆる類の苦しみにも関わらず、それを覆す何かがあることをも確信している。これは人智を超えたものだと思います。
もし、私達人間の智恵の範囲でものを見るならば、私はむしろ、聖書よりも、米「ニューヨーカー」誌が「世界で最も悲観的な哲学者」と形容したB・ベネター氏に賛同します。
ケープタウン大教授であるこの哲学者は、「我々の生存は意味を欠いており、人生は果てしない災難の連続である。そして、人類のなし得る最善の行為は、それを受け入れて生殖を止め、自滅に至ることである」――と説くのです。
しかし、それでもなお、自分の智恵を超えたものがあると信じ、生きることに決める、そんな道もあるはずです。
この伝道者が説く観想には、何か我々を超えたものがあるように思えます。
最終章の述べるもの
さて、五章の後もこのような感じで、むなしさと不条理を説き、そしてそれを少しだけ覆す光を説く、そういう散文が続いていきます。以下一部抜粋です。
「正しい人が正しいのに滅び、悪者のが悪いのに長生きする」(7章,15)、
「日の下であなたにあたえられたむなしい一緒の間に、生活を楽しむがよい」(9章,9)、
「人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。」(11章,8)
「若い男よ、若いうちに楽しめ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め、しかし、これらすべてのことにおいて、あなたは神の裁きを受けることを知っておけ。・・・
若さも、青春も、むなしいからだ。」(11章,9-10)
そして、最後の十二章は、それらの総まとめのような文言が続きます。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。
わざわいの日が来ないうちに、また「なんの喜びもない」と言う年月が近づく前に。」(12,1)
さらに、最後の最後には、また最初と同じ言葉が繰り返されます。
「空(くう)の空(くう)。伝道者は言う。すべては空(くう)。
・・・
もうすべてが聞かされていることだ。
神を畏れよ。
神の命令を守れ。
これが人間にとってすべてである。
神は、全であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれる」(12.8-14)
これで、コヘレトの言葉は締めくくられます。
むなしい世界。むなしい私。むなしい人生。それが、人間の考える限界のように思えます。
しかし、そこで終わらせるだけが、人間の生きる道ではありません。私達は、歴史への神の介入をも知っているからです。
旧約の書物もそうですし、その最たるものは、約二千年前に生きた一人の人間キリストです。
そして、そんな神の歴史への介入を信じて生きていく――、それもまた、とても「人間らしい」ことだと思うのですが…、どうでしょうか?
今日も、読んでくださって、どうもありがとうございました。
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