人の罪を背負う不思議

まじめな教義・聖書の話

人の罪って背負えるもの?

 前々回のさらにひとつ前「過ぎ去ることを望んだ杯」の最後にて、人の罪を背負うとはどういうことかという問いを提起し、次回にと言いつつそのままになっていました。
 そこで、今回は遅ればせながらこれについて書いていきたいと思います。

他人が罪を背負う?

「キリストは、私たちの罪を背負って死なれた。」
これはキリスト教の教義の中核です。
罪のないキリストが、愛ゆえに、罪のある私たちのために死なれ、私たちをあがなってくださった。ですから彼は救い主であり、私たちの希望である、と。
 しかし、そもそも他人の罪を背負うって、どういうことなのでしょう?
それを言っちゃあ…という感じの、根本を揺るがす疑問ですが、実は思ったことあるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 普通は、たとえどんなに望んだとしても、他の誰かの代わりに刑務所に入ったり死刑になったりすることはできません。
 本当は犯人じゃないのに自分が犯人のような振りをして代わりに刑罰を受けることはできるかもしれませんが、それは本当の贖罪にはなりませんから、やっぱりそれも違いますよね。

 つまり、そもそも罰されるとか罪を償うとかというのは、他人が代わりにすることにはそぐわないと言えるのではないでしょうか。
 できてせいぜい代わりに賠償金を払うくらいのものです。
 そうしたことから、キリストが私たちの罪を背負いあがなったというのは、どうもピンとこないのです。

謎のダブルキャスト?

 しかも、それに加えてこの場合、罪を背負って罰を受ける側は、神なる父と一体であるはずの子であり、
罰するとされる側は、子と一体であるはずの父なる神です。(正確には神は父と子と聖霊の三位一体ですが。)
 そうすると、まるで一人の人物が「許す側」の父と「許される側」の子をダブルキャストで演じているような、変な感じもします。なんだか茶番みたいです。
 また、わざわざ見せしめのように人間の身代わりとして自分の子に罰を与えなくても、そもそも父が人間を許せばすむことじゃないかという気もします。
 これはいったいどう考えればいいのでしょうか。……

罪と罰

 まずこのミステリーをとくには、罪と罰の関係について考える必要があるかと思います。
一般に、人が罪を犯す→神が罰する、というのが基本公式です。
 私たちは、弱さゆえ脅かされないとなかなか自分を律することができませんから、この基本公式にはそれなりの意味があるといえます。
 しかし、それが本当に正確なものかというと、それはまた別の話です。
 より正確を期して神学的な観点から言えば、実は、愛でしかない神から罰が来るということはありえないとされています。
 そこでは罰は神からくるのではなく、罪は同時に罰でもあるとされます。
罪を犯すこと自体が罰であるから罪と罰は一緒に来るのです。ですから、罰を引き起こすのは罪を犯す私たち自身です。
 「悪」を、神とともにあるべき調和の状態がゆがんでしまった状態だと定義するとすれば、それを引き起こす行動が「罪」であり、その不調和の状態がすでに罰でもあるわけです。
 その渦中にある本人はもしかしたらその危険性がわかっていないかもしれませんが、(しばしば罪におぼれている人は笑っているものです)、本当はいつ破滅してもおかしくない神と離れた危険な状態にあること、
それ自体が本当の罰であり、この世の苦しみが過ぎ去っても私たちに付きまとうであろう本当の苦しみです。
 ですから、「そんなことをしたらバチがあたるよ」などという日常語としてのバチ・罰とはかなり意味が違いますね。

人間というものの境界

生物学的個体として 

そして次に、ここであがなわれる人間というもの全体について考えてみます。
 私たちは普段、一人の人間の境界線を、生物学的な一個体を基準としてとります。
 当たり前のこと過ぎてこんなふうな言い方はかえって変に聞こえるかもしれませんが、
大体ひとつの心臓で血がめぐらされている範囲(毛とか爪とかは血が流れてませんが)とでも言いましょうか、つまりはいわゆる「一人の人間」といわれるものを一個体とみなし、それぞれ別の完結した体系だととらえます。
本当に当たり前すぎてすみません。
 それらはお互いに精神的・物質的に影響を与え合うことはあっても、独立した別個の存在です。
 一人の人間に属する「右手」が怪我をしたら、その人の免疫全体がそれを治そうとし、結果その人のほかの体の部分、「左手」も「両足」も他の部分もみなその影響を受けます。
 ですが、一人の人が怪我をしても、ほかの人には影響はありません。精神的また物理的な交流を通して影響を与え合うことはあっても、根本はそれぞれ独立した存在の、別々の命だからです。
 だから通常わたしたちは、この生物学的な境界線をもって人間というものを(そして大抵のほかの動物も)数えます。

生物学的境界線を越えるもの

 が、ときに、この生物学的な境界線をこえるような、不思議なつながりが人間間に見られることも、どうやらあるように思えます。
 たとえば、分析心理学の創始者で精神科医かつ心理学者であったユングは、個人を超え人類に共通する意識(集合的無意識)が存在すると述べています。
 それは民族や人種を問わず、人の深層心理のさらに奥にあるとされる意識です。
 また、一個人の中の内的世界が、他者の内面世界や外界と何らかの共鳴だとか相関だとかをみせる「共時性(シンクロニティ)」という現象が存在するともしています。

 また仏教はさらに壮大で、すべての生命の根源はつながっており、ゆえにすべての生物はすべて仏性をもつというような世界観があるかと思います。
 ユングの分析心理学は、仏教のとらえたこうした生命の豊かさを、
ほんの少しだけ現代的な手法で観測したものなのかもしれないという印象を私は持っているのですが、どうでしょうか。

 そしてまた、キリスト教の使徒パウロもまた、コリントの教会への手紙で興味深いことを言っています。
「体はひとつでも多くの部分があり、体のすべての部分は多くあってもひとつの体であるように、キリストの場合も同じです。
実に私たちは、ユダヤ人であれギリシャ人であれ、奴隷であれ自由人であれ、

洗礼を受けて皆ひとつ霊によってひとつの体に組み入れられ、また皆ひとつの霊を飲ませてもらったのです。
体はひとつの部分ではなくて多くの部分から成り立っています。

 目が手に向かって、「お前は要らない」とは言えず、あるいはまた、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体のうちで他より弱いと見える部分が、むしろずっと必要なのです。

もし体のひとつの部分が苦しめば、すべての部分もいっしょに苦しみ、もしひとつの部分がほめたたえられれば、すべての部分もいっしょに喜びます。
あなたがたはキリストの体であり、一人ひとりその部分なのです。」

(1コリント12,12~28)

 わたしは若い頃この部分を単なるたとえだと思っていました。
 キリストを信じる者たちはキリストを頭として、ひとつの体のように協力するべきこと、
信じる者たちのなかで一人ひとりの能力が違っても、だからといって誰が偉いというわけではなく、それぞれが必要とされていること――、そうしたことをパウロが「ひとつの体」というたとえをつかって説いた箇所だと思っていました。
 もちろんそうしたとり方も間違っているとは思いませんが、それだけでなくそこにはもっと深い意味があったのかもしれません。
 つまりは、この表現をもっと素直にとり、もしかしたらキリスト者には(もしくは人間一般には)、生物学的境界線をこえたもう一段階上の集合体――ひとつの体、が本当に存在するのかもしれない――ということです。

 もちろん、なんでも文字通りとるのが良いというわけではありませんが、
聖書にある不思議な表現などをすべてたとえだとか象徴だとかとし、現代的な常識と合致させることは、時にもったいないとも言えるのではないでしょうか。
 そうすることでキリスト教思想に現代的市民権を与えたくなることも理解できますが、
それは同時に、その超自然な豊かさを狭い常識の範囲に閉じ込めてしまうことにつながるからです。

カトリック神学と生物学的個を超えた「ひとつの体」

 さてまた、こうした「種における有機的集合体」とでも言うべきものは、ユングのみならず、地質・古生物学者にしてカトリック司祭であるティヤール・ド・シャルダン(1881-1955、北京原人の発見で知られる)の思想によってもうっすらとそのシルエットを掴むことができそうです。
 詳細は割愛しますが、彼は「現象としての人間」などの著作でダーウィンとはまた違う質の進化論を説いており、その際に個々人を超えた有機的共同体を示唆しています。
 進化論ということで当初は教会から危険視されたこともあったようですが、今では彼の思想はカトリック神学においても重要な位置を占めています。

私たちの理解を超えたもの

 さて、もっとも、こうした「種における有機的集合体」を知覚することは私にはできません。
 ただ、ああパウロのみならず近代のこういう立派な人々が言ってるのならそうなのかもしれない、というくらいです。
 と、このように心もとない理解なのですが、霊的な天才パウロはその得た真理を、「キリストを信じる者としては幼い者である」わたしたち一般の信者に、どの程度まで、またどのような言葉で話せばいいのか戸惑っていたようです(1コリント3,1)し、
ブッダもまた自分が得た悟りを人々に話しても理解されないだろうからやめておこうと一旦は思ったものの、そこに現れた梵天から人々に伝えるようにと言われ、説法を始めたとされます。
 それほどに「真実」は、凡人であるわたしたちの常識から離れたものであるのだから、わたしにそれが理解できなくても当然のことと私は思っています。
ただ、そう言われるのなら、そうなんだろう、と受け入れて信じるだけです。

神が人間となった

 さてここまで、罪と罰の関係に続き、人間にはここの生物学的個人を超えた大きな集合体としての性質もあるようだ、ということを論じてきました。
 そこで、ようやく本題に入ります。
なぜキリストがわたしたちの罪を背負うことができたのか、です。

「お前を見捨てることができようか」

神は人間を作りました。
特別に愛するものとして、

あたかも婚姻の約束のような、一対一のあなたとわたしの関係とともに。
だから人間には特別な知恵を与え、特別な自由を与えました。
しかし、人間はその自由を悪用し、神から離れるという罪を侵しました。
それゆえ、人間は、神から離れた遠く苦しい場所をさまようこととなりました…。
(ここで、本来ならば神は契約破棄、婚約破棄でよかったはず…。)
しかし、神はこう言われます。
「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。」(ホセア11,8)
(こうして神の愛が大きすぎたゆえに、神は

みずからの義にすら逆らいます。
 人間は罪深いけれど、神はすでにその罪深い人間を愛しているのです。
 もっと良い人間を作ることもできたけれど、それではダメ、
 どうしようもなくても「この人間」を愛しているのですから…。)

 そこで、神がとられた手段は、自分がその「集合体としての人間のからだ」の一部となって、人間全体を引っ張り上げることでした。
 神は自らが人間となり、その集合体としてのひとつの人間のからだを、黄泉から天の国まで引き伸ばす苦しい荒療治…、つまり死よりも大きい愛を実行するという十字架の受難と陰府下りを自ら引き受けられました。
 もし、個々人がすべて独立した別々の存在なら、キリストという個人が死を超えて黄泉から天まで行くという偉業を成し遂げたとしても、それは他の個人に影響を与えはしません。
 しかし、もしも私たちが一つの体としての性質を持つのなら、もし体の一部に起こったことが他の部分にも影響を与えるのならば、それは大きな意味を持ちます。

 神は、私たち人間を、もっと良い人間に作り変えたくはなかった。
神を裏切るという罪を犯し、その罪にがんじがらめになってしまったどうしようもない人間であっても、神はその人間を愛していたから。
 そのために、神はご自身が人間の一部となり、人間となった神の子キリストは、自分は罪を犯していないにもかかわらず、人間の罪を克服するための罪と逆の行動をなさいました。
 これによって、欠点だらけのわたしたち人間たちは神にそのまま受け入れられ、ただ、キリストの受難を通じて、そのままの人間の集合体全体に新たな救いの道が開かれたわけです。
 それが、キリストはわたしたちの罪を代わりに背負い、あがなってくださったとの表現の意味するところではないでしょうか。

キリストはぶどうの木

 ですから、いまや黄泉は開かれ、天の国への道も開かれてはいます。が、やはりキリストを離れては私たちは無力です。キリストと同じひとつの大きな体から、離れないように努力する必要があります。

「わたしは真のぶどうの木であり、
あなたたちはその枝である。
人が私のうちにとどまっており、
私もその人のうちにとどまっているなら、
その人は多くの実を結ぶ。
わたしを離れては、あなたたちは
なにもすることができないからである。」(ヨハネ15,5)

今日も読んでくださってどうもありがとう。

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