「避妊NGのカトリックの教えに従ったせいで、望まぬ妊娠をした」

まじめな教義・聖書の話

避妊NGって、どういうこと?!

こんにちは。
避妊を禁ずるカトリックの教えに関しては、賛否両論があるようです。
本当にデリケートな話題ですので、なかなか扱いづらいものではあるのですが…。

 この教義は、時に混乱を招きます。
 実際、若い未婚の人から、「カトリックの避妊NGの教えのせいで、望まぬ妊娠をした、それなのにカトリックの教えのせいで中絶もできない」という文句を聞いたことがあります。
 しかし、そういう文句に対しては、このような反論がありうるでしょう。

「避妊禁止よりも、婚前交渉の禁止の方が、カトリックにおいて重要な決まりです。
なぜ、大きい決まりである婚前交渉の禁止を破っておいて、小さい決まりの避妊禁止を守るのか?」
と。

婚前交渉の禁止

婚前交渉の禁止、これは有名かつ重要なカトリックの信条ですね。

 もちろん、誰かがこれを破ったからと言って、その人を価値がない者のように扱うのは大間違いです。また、自分がこれを守っているからと言って、自分を清く正しい人間だというふうに高慢になるとしたら、むしろ危険だと思います。
 また、この婚前交渉の禁止が、どんな場合にも必ず正しいとも限らないし、これを守ったら必ず安泰というわけでもありません。
 でも、とりあえずは、これは、私達凡人をそれなりに守る、長い教会の歴史からきた人生の智恵の一つではないかと思います。
 
 性は良いもの、性は生をつくるもの、性は聖なるもの。
 しかし、同時に、性は私たちを振り回す力を持ちます。賢い人でも、時には、自分を見失ったり、無様な醜態をさらしたりするのが、性です。
 もしかしたら、ある程度の人生経験を積んだ人の中には、性の問題を、自分の理性を失わずに扱えるような人もいるのかもしれませんが、実際には、世の中そんな達観した人ばかりではありません。
 ましてや、若い人にとっては、諸刃の剣となりうるものではないでしょうか。そして、この剣は、必ずではないけれど、下手すると人生を破滅させるほどの力を持つのです。

 ですから、その激しい力から私たちを守るため、教会が定めたルールが婚前交渉(婚姻外交渉)の禁止なのではないかと思います。
 ですから、それは人を断罪することが目的ではなく、人を守るためのものです。もし、それをもって誰かを断罪することがあるとすれば、それはとても残念なことだと思います。

 避妊の禁止などのカトリックの教えを考える際に、その大前提として、この婚前交渉の禁止を認めることは重要です。避妊禁止の部分だけを取り出して強調すると、おかしなことになります。

どうしても婚前交渉を持ちたいときには?

 ところで、婚前交渉の禁止といっても、現代においては、それを守っている信者ばかりでもないかもしれません。とすれば、妊娠はしたくないが婚前(婚外も同様ですね)交渉を持ちたいという場合には、どうするのかという現実的な問題があります。

このような場合に、カトリック教会が言っているからと避妊禁止の教えの方だけ守って、避妊をしないのは、ナンセンスです。
 すでに、婚外交渉の禁止の掟をやぶっているのですから、せめて望まない妊娠や、性病のリスクは避けるよう、現代人の良識として正しい避妊をするべきですし、冒頭のように、そこでカトリックの教えを責めるのはお門違いです。

 かつて、ベネディクト16世は、HIVの蔓延などの問題について意見を求められた時、「避妊具がその決定的な解決策にはならない」(=本当の解決は婚姻に基づく一対一の排他的な性関係だ)ということをおっしゃいました。
 すると、これが「ベネディクト16世が、HIVの問題にもかかわらず避妊を否定した!」というようなショッキングな見出しで報道されました。
 確かに、ベネディクト16世は、俗世のことに不器用で、誤解されるような言い方をしがちな方だったのかなという感じもしますが(ヨハネ・パウロ二世なら、同じことをおっしゃるにしても、もっと上手く言われたかも)、それにしても、ちょっと短絡的な報道も多いのではないか、というような気もしたものです。

「バースコントロール」の手段としての禁欲

 また、「結婚しているが今は妊娠したら困る、という場合には、どうすればいいのか」という疑問もありうると思います。
 これも、もし中絶という選択肢が出るくらいならば、避妊したほうがいい、と言えるとは思うのですが、伝統的には、一応カトリックならではの教えがあります。

 これは、婚前交渉の禁止や避妊禁止に比べるとあまり有名ではなくて、そこまで知られていないのですが、夫婦二人で協力しての「禁欲」です。
 長い結婚生活においては、経済的状況や健康の問題などによって、今は妊娠をしない方がいい、という時期もあると思います。
 そういう場合に、カトリック教会において、伝統的に奨励されてきた方法が、夫婦二人の精神的な絆に基づく、禁欲的生活というものです。

 これは、なかなか苦しいものであるかもしれませんが、ちゃんとそうせねばならない理由があり、二人の心が合わさった状態で協力してするならば、むしろ二人の精神的な絆を強め、さらに二人の信仰も強めると言われています。
 きっとそれはそうだったのだろうと思います。
 ただ、もっと簡単な方法が、手軽に身近にある現代人にとっては、時に難しいことかもしれませんが…。
 
 現代では、これ(禁欲)に加えて、オギノ式、ビリニングスメソッドなど、女性の妊娠しやすい周期を利用した避妊法が、カトリック教会の推進するところです。
 これは、ある程度の二人で協力する禁欲的な期間もあるので、本来の禁欲の精神から全く外れてはおらず、また受胎の神秘に人工的な手を加えないということで、カトリック教会の方向性に合うものだったと言えます。

中絶

 さて、それでも望まない妊娠が起こってしまった場合、問題になるのは中絶です。これは宗教的な次元だけではなく、政治的な次元でも賛否両論がある問題です。
カトリックでは、もちろん、中絶は禁止です。
 これが、性暴力による妊娠の場合はどうか、など、容易には判断のできない場合もあるとは思いますが…。

 一般に、中絶推進派の人々は、それを女性の権利と見なすようです。
 しかし、私は、個人的には、妊娠の継続においては、女性の権利以上に赤ちゃんの権利の方が、大きいと思います。
 そして、生んだ後は、里子や養子に出すなど、いろいろな選択肢もあるのではないかと思います。

 一方で、望まない妊娠や出産に関し、女性のみが負担を被って、男性は逃げることができるというのが不平等だというのは、その通りだと思います。 
 しかし、だから平等に近づけるために中絶を、というのではなく、何らかの違う法整備を進めることもできるのではないでしょうか。

 たとえば、フランスでは、女性が、父親と思われる可能性のある男性に裁判所を通じてDNA鑑定を求めることができ、父子関係が認められれば、強制的に認知を求めることができると言います。
 さらに、もしその男性がDNA鑑定を拒否したら、もう自動的に父子関係があるものと見なされるという逃げ道のなさです。
 つまり、子供を認知させられる危険を避けたければ、男性も、一夜の行きずりの恋はやめておけ、もしくは、一夜の恋でもしっかり避妊をしろということです。

 もっとも、それでも、女性の側が、父親と思しき男性を見つけることができなければ、この強制DNA鑑定も無理なので、どうしても完全に平等とはいきませんが。
 しかし、できることならば、中絶以外の方法で、望まない妊娠における男女間の責任分配を、平等に近づけられたらと思います。

 カトリック教会は、胎児であっても、受精卵であっても、すでに命であると考えています。
 望まない受胎というのは大人の都合です。胎児がそれら大人たちの行為の責任を、自分の命で払うというのは、おかしいのではないかと思います。
 

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