「許す」なんて、傲慢な気がする…

まじめな教義・聖書の話

頭には来る、しかし自分に相手を許す権利があるのか…

こんにちは。
「相手を許す」ということは、キリスト教教義の真髄だと思います。「愛」と「許し」はほぼイコーだと説かれることもあります。
 許すことの難しさ、大事さを説かれることも多いでしょう。

 しかし、時に、「相手を許す」と言ってしまうこと自体が、上から目線と言うか、傲慢なような気がしてしまうこともあるのではないでしょうか。

 そもそも、自分からすれば、相手が間違っていると思うから、そこに「許さなければ」という感覚が出てくるはずです。
 しかし、相手からすれば自分が間違っているのでしょうし、そもそも自分が正しいという保証もない。
 とすると、そんな状態で「相手を許します」などと言うのは、もしかするとものすごい傲慢な勘違いなのではないかという気がして、それはそれで躊躇してしまうものの、かと言ってこの感情的な怒りや恨みの気持ちの行き場もなく…。
 そうなってしまうと八方ふさがりです。

 聖書の「許し」とは、どういう語なのか、少しだけ考察してみたいと思います。

ギリシャ語の「許す」

 新約聖書は古代ギリシャ語で書かれているのですが、この「許す」と訳される単語は、正確に言うと、「放免する」「手放す」という意味だといいます。
 以下は、マタイによる福音書の中の有名なたとえ話です。

 ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
決済し始めたところ、一万タラントの借金している家来が、王の前に連れて来られた。
 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。
『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。 (マタイ18章23~34節)


 ここで使われている「帳消しにする」が、一般に「許す」とも訳される言葉です。
つまり、返済を要求せずに、債権を手放す、という意味です。

当時の通貨価値

ちなみに、当時の貨幣単位について、少し触れます。
1デナリは、労働者一日分の賃金でした。
そこから、1デナリを1万円と考えてみます。

1タレントは、6000デナリでしたので、単純計算で6000日分(=16年半分)の給料です。
先の日当1万円で言うなら、1タレントは、1万円×6000=6000万円くらいだと言えます。

さらに、この家来が主君に借りていたのは、1万タレントですから、日当1万円の人の16万年分以上の給料です。約6000億円。
 これは、実質、「返すことが不可能な額」として、描写されていたのではないかと思います。

一方で、この家臣に借金をしていた仲間の借金額は、100デナリ。
100万円、とても現実的な額です。

ここで、道徳的な「許し」の語感にふさわしいのは、返すことが不可能な債権を放免することに近いような気がします。
しかし、私達には、そこまでする資格はありません。そんな責任を取ることはできないからです。

が、いくらかの債権を手放す程度のことなら、あるいはできるのかもしれません。

少ない債権を手放す

聖書の中でたびたび使われる「許す」の言葉は、思った以上に幅広い意味を持つ豊かな言葉のようです。
私たちは、許しと聞くと、道徳的な許し、罪の許し、というニュアンスでの許しと思いがちです。
しかし、その意味で本当に「許せる」のは神様だけですから、その行為を自分がしていいのかと、そこに違和感が生じてしまうのではないでしょうか。

しかし、少ない債権を「手放す」という意味での「許し」であれば、少しだけ気持ちが違ってくる気がします。
 万が一、自分の側に債権があると信じることが勘違いだったとしても、もしくはその額を勘違いしていたとしても、すでに免除された自分の返済不可能な債務に比べれば、その勘違いの債権だって極々小さいものですから、その勘違い自体大した問題ではなくなります。
 
あってもなくても、思ったより多いとしても少ないとしても、とにかく手放す、と。
 そういう気持ちで、「債権を手放す」ならば、そこには傲慢の付け入る隙が少しばかり小さくなるように思われ、手放す側の気持ちも、少し楽になるのではないかと思いますが、どうでしょうか。

今日も、読んでくださってどうもありがとうございました。

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