犬にも小鳥にも天国で会いたい

まじめな教義・聖書の話

動物は天国にいく?

 誰かが亡くなったとき、神さまを信じる人々は、天国での再会を待ち望みます。わたしもその一人です。
 ときに、疑いが生じてしまうときもあるけれど、それでも信じて生きていきます。
 しかし、聖書は動物に魂があるとも、動物も天国に行くとも(地獄に行くとも)言っていません。また、教会もそれについては明言をさけているようです。
 だから、亡くなった犬や猫や小鳥やハムスターはどうなったのかな、と気になってしまいます。
 できることなら、亡くなった大事な人と同じように天国にいてほしい。そして、いつか天国でまた会いたい。
 聖書も教会も特になにもはっきりとは言ってはいないけれど、聖書やカテキズムのなかには、もしかしたら、わたしたちがどう考えればいいかのうっすらした手掛かりくらいはあるかもしれません。
 ですので、今回はこれについてちょっと考えてみたいと思います。

人間と動物の違い

特別な人間

 キリスト教において、人間は他の動物とは違う特別な存在です。
 人間は神の似姿としてつくられました(創世記1.26)。
 さらに人間のみが、他の動物はもたない知恵と自由意志を与えられました。
 そうしたことから、キリスト教では、動物にも Soul はあるが、人間にはそれに加えて(もしくはそれより高度な) Spirit があるとされるそうです。
 Soul も、Spirit も日本語に訳すと両方「たましい」といった意味ですが、キリスト教ではそのたましいでも少し性質が違うと考える伝統があるということです。

 そしてさらに、人間は、他の被造物に名前を付け、支配することを神さまから任されました。
もちろんここでいう支配とは人間の身勝手に扱っていいという意味ではなく、「支」えて「配」慮する責任があるということだと思います。
 このように楽園にいたときから、まず人間は特別な仕方で作られ、特別な役割を担わされていました。

特別な人間の特別な罪

 ところがその後、人は罪を犯して楽園を出ます。神さまから与えられた自由意志を、間違ったやり方で使ってしまったからです。
 ここから、人間の苦しい旅路の歴史が始まります。

 ただ、ここで逆に考えてみれば、他の動物は、人間が犯したような罪を犯してはいません。
 そもそも自由意志を与えられていないわけですから、人間のように神に逆らう罪を犯すべくもないわけです。
 となると、同じこの世界に肉として生きていても、人間でない他の動物のたましいは、人間とは違い、楽園を出ていない、ともいえるのかもしれません。
 もちろん、うちの歴代飼い犬を思い出すと、動物であっても意志も感情もあり、やったのにやっていないふりをしたり、逆ギレしたり相手をナメたり、その他身勝手な行動をとることも普通にありましたから、動物が全く悪いことをしないとは言いません。
 ですが、やはり人間とくらべてみると、その罪はまったく性質が違うものである気がするのです。

動物と神さま

 そうしたことからも、動物は人間と違い、まだ神さまの手を完全に離れてはいないような、なにか根本的に違う次元に生きているような気がします。
 たましいはたましいでも Soul と Spirit が違うというのは、こういう感じをも含んでいるのでしょうか。
 教会が言っていないことを想像するのは危険かもしれませんが、これが、「動物が人間と同じように天国に行く」とも「行かない」ともはっきり言えない感じにちょっとつながってくるのかな?という気がしないでもありません。

 そもそも、人間が動物に愛情を感じることができるのに、人間よりも愛情深い神さまが動物に愛情を感じないとは思えないのです。
 だから、動物たちもただ死ねば終わりというのではなく、神さまがほっておくわけはないけども、なにか人間のたどる道とは違うのかなという感じがします。

スズメさえ忘れられることはない

 ここで聖書の言葉を見てみます。キリストは、

「2羽のスズメが1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」(マタイ10.29、ルカ12.6)

と言われています。
 1アサリオンというのはかなりの安価なようです。
(余談ですが、マタイではスズメの値段2羽1アサリオンですが、
ルカでは5羽2アサリオンとなっています。
これって2羽が1アサリオン、ただし2セット買うと1羽おまけ、ということだったんでしょうか?)

 人間に安価で命をやり取りされるスズメたち。時には一羽おまけでついてきます。
 人間はそのスズメたちをそもそも生き物と認識していないかもしれません。ましてや一羽一羽に個性があることなんてまったく思いもよらないことでしょう。
 でも神さまはその一羽一羽を忘れず、気にかけておられます。
 その気にかけ具合が、この地上の生があるときのみで、地上の生が終わったら終わりですということはあり得ないのではないでしょうか。

 それがどういう方法なのか、この世の生が終わったときにどういう道をたどるのかなどは、人間の場合と同じで私たちに知りえないことかもしれませんが、
一羽一羽を忘れない神さまの優しさに信頼して、亡くなった動物たちとまた会うことに希望を持っても、
それが裏切られることはないのではないかと思います。

 そういえば、カトリックのミサ奉献文でも、
「その国で、罪と死から解放された宇宙万物とともに、主キリストによってあなたの栄光をたたえることができますように」
という箇所があります。
「宇宙万物」のなかには、動物も含まれるでしょうから、やはりカトリック教会も、動物と天国の問題について明言はしておらずとも、
何らかの形ですべての被造物が救われることを想定しているのではないかという気がするのです。

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