母になれない母の苦しみ ~ カナンの女

まじめな教義・聖書の話

母なるもの

 母なる大地などと言うように、母というものはしばしば私たちを育み包み込むものの象徴としてあらわされます。
 この世に存在する中で、神の愛に一番近いものという言い方をされるときもあります。そして実際そうだと思わされることも少なくありません。
 ですが、人間はやっぱり神さまとは違います。母親になったからと言って自動的にそのような母になれるものではありません。子供とともに母も一緒に成長し、本当の母になっていくのだと思います。
 しかし、そうした過程で何かがうまくいかず、子供を育てられない、または母となれないこともありえます。母源病という言葉がありますが、母の愛が時代を超えて普遍であるのと同様に、こうしたこともまた時代を問わない現象なのでしょう。
 聖書にもそのような母親らしき人が出てきます。カナンの女(マタイ15.21、マルコ7.24)です。今日はこれについて考えてみたいと思います。

カナンの女

文化・言語背景

 キリストがツロ・シドン地方にしりぞかれたとき、その地方出身で異邦人(ここではおそらくギリシャ人)である女が現れます。
 聖書において、彼女はカナンの女(マタイ)、またはフェニキアの女(マルコ)と呼ばれます。
 カナンとは、旧約聖書で偶像崇拝をする異教徒という意味合いで使われた語であり、フェニキアとはこのツロ・シドン地方を含む一帯のことです。
 この地はイスラエルに属しないフェニキア沿岸の異国であり、ここではキリストたちが普段使っていた言語とは違う言語が話されていました。
 ですが、彼女はキリストたちに彼らの言葉で話しかけていますから、彼女はかなり教養のある女性だったようです。

カナンの女?カナンの母?

 しかし、何かがおかしい、キリストの対応も含め、何かがいつもと違うのです。
 まず、聖書において人は〇〇の母、○○の子、○○の妻、とかというふうに続柄をもちいて呼ばれることが多い(女性は特に)のですが、彼女はそうは呼ばれていません。
 ○○の女と呼ばれるとき、それは夫がいないとか(内縁の夫はいるが夫ではないとか)、何らかの暗示があることもあるのですが、
この女性は娘のために懇願しに来ているのに、なぜか「カナンの母」ではなく「カナンの女」と呼ばれているのです。
 ここで一つの推論が立ちます。彼女は、母でありながら母ではない。まだ本当の「母」にはなりきれていなかったのではないか。
 そう考えると、彼女の懇願の言葉にも納得がいきます。
「わたしをあわれんでください。娘が悪魔にひどく苦しめられています。」
 苦しめられている娘をあわれんでください、というのではなく、わたしを、です。
 娘が苦しんでいる状況のせいで自分が苦しいからという意味かもしれませんし、また娘の病気になにか自分が関連していることを感じ取っているのかもしれません。
 教育や聡明さは役に立たない、なにか異質の苦しみ。なんにしろ、これは何か普通ではない状況のようです。 

キリストの対応

 しかし、それに対するキリストの態度は冷たいものでした。最初は一言もお答えになりませんでした。それでもついてくる女に対し、
「わたしはイスラエルの家の迷える羊のところにだけ、遣わされているのだ」
と言われます。
 ここで、彼女は実際イスラエル人ではない異邦人だったので、それ故に断られたと読むこともできます。
 しかし、聖書の他の箇所においてキリストは、ハンセン病をいやされて主を賛美しに戻ってきた異国人をほめ(ルカ17.11)、
 サマリアの女にみずから話しかけ(ヨハネ4.1)、
 ローマ人である百人隊長がそのしもべの病を治してほしいと訴えるとすぐに「わたしが行って治してあげよう」と言われ、
 さらにはそれに対する百人隊長の返答を「イスラエルのなかですら、これほどの信仰を見たことがない」とほめられています(マタイ8.5、ルカ7.1、ヨハネ4.46)。
 こうしたことからすると、彼女が単に異邦人であったことが理由だったとは考えにくいのではないでしょうか。

イスラエル人とは?

選ばれた民?

 そこで、ここでイスラエルという語について考えてみます。イスラエルという語はいろいろな意味を持ちます。
 もちろん、実際にイスラエル人という民族集団を意味することもあるし、
神から特別に選ばれた優越的な民だとか、偶像でない神を信じる民だとかといった象徴的な意味を持つこともあります。
 しかし、イスラエル人だけが特別に優れているから神から選ばれただとか、イスラエルだけが選ばれて救われるといったものは、誤った選民思想だといってよいと思います。
 思うに、選民という場合にはすべての人類を救うための特別な「役割」を担うよう選ばれた民、という意味にとるのが妥当でしょうし、
ここでキリストが使ったイスラエル人という語は、血縁的な民族集団ではなく、偶像でない神を信じる人々というふうに象徴的にとるのが自然ではないでしょうか。

偶像でない神

 実際、カナンとは、旧約聖書において「偶像を信じる異教の人々」の象徴としてしばしば使われる土地名ですが、
 この女が住んでいるのは実際はツロ・シドン地方のフェニキアです。
 それなのに、彼女が「カナンの女」と呼ばれていることはそれを端的に表しているといってよいでしょう。

 またここで、偶像を信じるとはどういうことでしょうか。
 これは、旧約聖書の出エジプト記において、モーセがちょっと留守にした間に人々が自分たちが作った黄金の牛を崇拝した逸話からきたもので、本当は崇拝するには値しないはずのものを神のように大事にするという意味と言っていいかと思います。
 自分たちがつくった金の牛像をあがめていたというと、昔の人ってアホだったのかなという感じもしますけど、それはあくまでも象徴であって、おそらく金と家畜などの財産を重視するさまを表現したのでしょう。
 そうしたことから、総じてお金とか学歴とか肩書とか外見とか、本来は本当に大事ではないものに人生の価値を見出すこと一般を偶像崇拝と言っていいと思います。
 ですから、そういった意味では、おそらく現代に生きる私たちはしばしば偶像崇拝的な価値観を持っているといえるかもしれませんし、
 またキリストがこの女を異教徒と呼んだのもこの意味だったのではないかと思います。
 本当の神は愛の神ですが、カナンの女はまだそれを知らないのです。

追いすがる女とキリスト

神の前に身を投げ出す

 さて、キリストに拒絶のような返事をされ、かといってあきらめる選択肢もない、追い詰められた女は、プライドも何もかもかなぐり捨てて、キリストに追いすがりました。
 それは救いへとつながる一歩でした。
それができた女は、本当に強かったと思います。
 プライドを捨てて、その地ではむしろ異邦人であるキリストを、周囲の目をも気にせず「主」と呼び、追いすがる。ここまでできる人はちょっといないと思います。
 しかしながら、変わりたいと、自分は無力だから助けてくださいと、キリストの前に身を投げ出した女でしたが、まだどう変わればいいのかはわかっておらず、本当の大事なものを知らないまま――つまり偶像崇拝から抜け出せていなかったのでしょう。

 (偶像崇拝から抜け出ていないとは、無数に例は考えられますが、たとえば
「娘を幸せにするために富が必要だ」とか
「娘を美しい外見にしてやってください」だとか、
「こんなに娘にしてやっているのに私に感謝しない娘の性格を直して」だとか――などでしょうか。)
 偶像崇拝という根本的な過ちから自由にならないことには、その願いをかなえてもらったとしても本当の救いからは遠いままです。

向き合う主

 ですから、キリストは彼女に本当に必要なものを与えるために応えられました。それは、厳しいものでした。
 彼女は、本当に大事なものを、言い換えれば自分が本当に求めているものを、まだ知らないのです。
 そんな彼女にキリストが与えられたのは、沈黙、そして、今のあなたにはそもそも資格がないとの厳しい叱責、新たな脱皮をうながす痛みを伴う荒療治です。
 それは本当に厳しく、また冷たい対応にも思われます。
 しかし、もし、すぐにキリストが彼女の願いを聞いていたら、それは本当の救いにはならなかったでしょう。
 でも、彼女が強くかしこく、そしてキリストの前に身を投げ出すほどの覚悟があるからこそ、キリストは本当の救いへ向けて本気で向き合われたように思われるのです。

神の厳しさと愛

 思うに、わたしたちが祈っても聞き入れられないとき、その願い自体が偶像崇拝的なものだということも多々あります。そうしたとき、神は私たちのために沈黙なさることがあります。
 この沈黙は、「求めよ、さらば与えられん(マタイ7.7)」というキリストの言葉と矛盾するように思われますが、決してそうではありません。その願いが神のみ旨に添うものになったとき、それは必ず叶えられます――わたしたちが最初に望んだ形でなくとも。
ここが新興宗教とそうでない宗教をわけるものでもあるかと思います。

キリストへ向き合う女

 さて、「子供のためのパンを取って犬に投げ与えるのは良いことではない」
とまでキリストは彼女に言われますが、女はそれでもそれを受け入れて言います。
「ごもっともです。でも小犬もテーブルの下に落ちたパンくずを食べるではありませんか」
と。
 今まで信じていた価値観を捨て去ることは、ある意味で今までの自分の人生を否定することにも似て、本当に苦しいものです。
 今まで自分を守っていた肉と鎧をそぎ落として、ひたすら謙遜の底にまで下らなければいけません。

救い

彼女と娘の救い

 しかし、彼女はその苦しみに耐えました。そして、こうしたやり取りのあと、キリストは
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの望むようになれ」
と言われます。
 あなたの望むようになれという言葉は、よく考えてみると恐ろしい言葉です。
 「あなたの娘はいやされた」とかではないのです。もし女が、真の娘の癒しではないものを望んでいたらどうなるのでしょう。
 しかし、娘は治りました。それはつまり、女が本当の娘の癒しを望めるようになっていたということであり、女の最初の願いであった「わたしをあわれんでください」という願いをも聞き入れられたということです。

近くて遠い母と娘

 母と娘の関係というものは、極めて似た、また極めて近い同性ということで、一種独特のものがあります。
 このカナンの女を苦しめていたのも娘の病気でした。
 しかし、娘の病気とは、しばしば母の傷を映し出した鏡でもあります。
 ですから、その娘を通して、母の傷もまたいやされることができるのです。
 苦しみながらもあきらめずキリストに追いすがったカナンの女は、本当に強い女性でした。そして、偶像崇拝などの間違った価値観をもっていたとはいえ、そこまでキリストにおいすがれたのはやはり娘への愛があったからでしょう。
 人間的な未熟さをもちつつも娘と自分のために必死で神にすがるその姿は、本当に美しいものであったと思います。
 マリア様のような母のみが美しい母ではありません。もちろんマリア様のようになれればそれが一番でしょうが、実際は、わたしたちは母となっても父となっても多くの欠点を抱え続けなければなりません。
 それでも、このカナンの女のように全身全霊で神にすがれば、神は絶対にこたえてくださいます。本当の子供の救いは、決して偶像崇拝的なものではないからです。
 

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