21世紀になってからも、アメリカ人の半数近くが「創造論を信じている」と答えている?!
これは、私たち日本人が聞くと、ちょっとしたミステリーです。
米ビュー・リサーチ・センターの2015年に明らかにした調査では、アメリカ人の4割が「創造論を信じている」と答えたと言います。
また、その前、2004年に米CBSテレビが行った世論調査では、55%が創造論を信じていると回答したそうです。
これを聞くと、ちょっとアメリカは世界最先端のハイテクを持ちながら、変に前近代的なところがある不思議な国家だという印象を持ちます。
この国、大丈夫か?と。
しかしながら、日本のカトリック信者である私もまた、もし「創造論を信じているか?」と聞かれたなら、誤解を招くかもと恐れつつも、正直「はい」と答えるでしょう。
でも、「では、進化論を否定するのか?」と聞かれたら、「いいえ」と答えます。
矛盾のように聞こえるかもしれません。
しかし、実は、進化論の肯定は、創造論の否定と単純につながらないのです。
そこには、「創造論とはどういうものか」という理解への誤解があるように思われます。
今回は、これについて考えてみたいと思います。
原理主義的創造論
まずは、原理主義的な創造論について確認したいと思います。
これは、いわゆる旧約聖書の言葉を文字通りそのまま取る創造論です。
極端な福音派や、キリスト教的原理主義の諸派が主にこの考え方をとるようです。
旧約聖書の記述が文字通りに真実だと考えるなら、それと真っ向から対立する進化論は認める余地がないことになりますから、彼らにとっては、創造論にイエスと言う=進化論を否定することになります。
これを創造論一般だと考えると、人口の約半数が創造論を肯定すると聞くと、アメリカは大丈夫か?ということになってしまいます。
しかしながら、進化論は、そのさまざまな考古学的証拠からして、もはや意見というより、客観的な事実です。
そうした事実を認めずにやみくもに否定することは、科学としても、また宗教としても、どうも誠実な態度とは思われないのですが、どうでしょうか。
また、確かに、そういうアメリカ人もそれなりにいるかもしれませんが、全体の半数というほどのアメリカ人がそうだとは、どうも思われないのです。
現代キリスト教的創造論
さて、実際のところ、カトリックや正教会、また聖公会や多くのプロテスタント諸派では、そのような取り方はしていません。
19世紀にダーウィンが進化論を発表した時には、それまで信じていたものがひっくり返りかねない仮説が出てきたということで、それなりの反発などもあったかもしれません。
しかし、それがどうやら事実らしいとわかってきたときに、それをやみくもに否定するだけが信仰ではありません。
キリストは人生を賭けるに足る人物で、聖書の言葉は正しいはずであり、そしてまたこの世界の示す進化論の証拠もまた正しいものであるのなら、その二つは両立するはずだと信じ、それなりの解釈を探すことが可能です。
さて、こうした曲折を経て、現代の多くのキリスト教諸派では、創造論を「象徴的な表現でなされた」神による天地創造、と捉えています。それは、この世界の根底には、きっと神の存在がある、と信じることです。
本当に、一日目に神が天と地を作ったのか、二日目に空を作ったのか、三日目に光あれと言われて、四日目に光と闇を分けて、五日目に光と闇に昼と夜という名前を付けて…、、、そういうことを一言一句その通りにとるというものではありません。
また、本当にアダムという名前の男を土から、またエバという名前の女をアダムのあばら骨から作ったというのも、そのまま取るものではなく、なんらかの宗教的な象徴として受け取ります。
聖書の表現を文字通りにとる原理主義派とは、その点で異なるのです。
もし、カトリックの学校に行かれたことがある人がいらっしゃれば、宗教の授業でそのように習ったはずです。
蛇足ですが、創造論に対する私個人のイメージとしては、
「光あれ」とは、ビッグバンから宇宙が始まったことを象徴しているのかな…
現生人類たちは、火の使用だとか道具の使用だとかを通じて「知恵の実を食べた」というような状態になっていったのかな…、
そして、人間は、今や他の動物とは異なる次元の罪を犯す存在になってしまい、それがつまり、楽園を出て苦しみさまようようになってしまった、ということだろうか…、
というような感じを持っています。
これはカトリック教会の見解というわけではなくて、私個人のなんとなくのイメージなので、カテキズム的に正しいかどうかはわからないのですが、創造論が進化論を否定するものではないという点においては、カトリック教会に沿っていると思います。
そして、それはおそらく、同様に創造論にイエスと答えた約半数のアメリカ人のうち、かなりの数の人々に共通する認識ではないかと想像します。
一部本当に文字通り信じている人もいるようですが…。まあ、このキリスト教の伝統が薄い日本にも「血を飲んではならない」という旧約の文言から輸血を否定するキリスト教一派が、それなりに根付いていますしね…。
「基本的な帰属錯誤」
さて、この問題は、質問者も回答者も何もウソをついているわけではないのに、その回答結果が少しばかり現実と違うようにとられかねないという危うさを含んでいました。
実は、これは文化人類学で言うところの「基本的な帰属錯誤」という有名な命題と似た部分があるのではないかと思います。
基本的な帰属錯誤とは、異文化理解のため、人類学のフィールド調査では何かの質問をしばしば異文化者にするのですが、その質問自体に質問者の文化的価値観が埋め込まれていて、そしてそのことに質問者も回答者も気づかないままにその質問がすすめられた時、回答から得られる結論が事実と違うものになってしまうという問題です。
たとえば、筆者は以前、アメリカの社会学者が日本人男性たちに夫婦間のコミュニケーションについて質問した調査結果というのを見たことがあります。
その結論は、日本の男性方は妻に「愛している」などの言葉をかけないことから、「愛やコミュニケーションが極端に薄い」というようなものでしたが、私からすれば、それはあまりに彼らが日本人男性の特性を分かっていないと思いました。
そもそも日本人男性は妻や家族を大事に思っていたって、愛していると言葉では言いません。昭和では特にそうで、それは愛情云々ではなく、前提条件が違うのです。ですが、それをあまりに当然のことだと思っていたそのアメリカ人質問者は、その可能性に思いが及ばなかったのでしょう。
これは、「基本的な帰属錯誤」の例だと思います。
(もっとも、それはかなり古くて80年代くらいの調査結果だったので、今では海外の人々ももう少し日本の文化について認識を持ってくれているのではないかと思いますが。)
さて、話を戻しまして、「創造論」問題についても、これと似た部分があるのではないかと思います。
アメリカ人の約半数が創造論を信じている、つまり、進化論を信じていない。
そう安直に考えることは、「創造論が何たるか」という前提の違いを知らないからかもしれません。
そういうあまりに不自然な結果を見た時に、それに疑問を持てれば良いのですが、そうでなければ大きな誤解を生むことになります。
もっとも、常識で理解できない聖書の部分をすべて象徴と取り、現代的な解釈でもって常識との隙間を埋めてしまうことには、問題もあるのですが、それでも文字通りに理解する原理主義的な取り方のみが宗教的と考えられるとすれば、とても残念です。
宗教というものは、頭が良くない人が信じる偽科学の最たるもの、というふうに捉えられることもありますが、それは人類の持つ豊かな知を半減させかねない危険をはらんだ思考ではないかと思います。
もっとも、宗教が目で見えない哲学を超えた形而上学である以上、こうした難しさが付きまとうのは仕方がないのかもしれませんが…。
今日も読んでくださって、どうもありがとうございました。
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