その親密な関係
「宗教はむしろ戦争の原因になるばかりじゃないか、ならば宗教などないほうがいいのではないか」という意見を聞くことがあります。
確かに、十字軍による戦争(11世紀~13世紀)や、キリスト教同士の新旧派による宗教戦争(16~17世紀)は有名です。
また日本でも、かつて広大な寺領をもつ寺院、たとえば興福寺、延暦寺(ここは後に信長と派手にやり合って焼き討ちにされました)、園城寺、東大寺など多くの寺院がそれぞれ僧兵集団を持ち、寺院間また他の領主たちとの間で勢力争いを繰り返していました。
また一般人によっても、宗教によって権力に向けて起こされた反乱(たとえば一向一揆…浄土真宗本願寺教団によって組織された信仰者たちによる自治を求めた一揆。加賀の一揆が有名ですね)など多くありました。
もう、洋の東西も時代も問わず多すぎて、挙げていくときりがありません。
ちなみに、仏教というおとなしめの宗教を持つ国の中で、僧兵という形態がここまで制度化していたのは日本だけだといいますから、まあなんとも複雑なものがあります。(しかも比叡山出身の僧兵・弁慶なんて日本史のヒーローです。)
その文化的な名残?もあってでしょうか(?)、第二次大戦期には、臨済宗が臨済号なる戦闘機を献上していますし(もっとも戦後に臨済宗はそのことを反省を込めて自ら明らかにし本を出版されています)、
当時日本の帝国主義に反対したのは仏教者よりもむしろ日本で少数派だったキリスト教徒(特にプロテスタントの方々)でした。
また同じ頃のヨーロッパにおいては、世界大戦に際し、ローマ・カトリック教会はそれまでの行き過ぎた政治介入を反省し、できるだけ中立を守ることに努めたものの、
戦後、ナチスに対してはもっと教会として積極的に反対すべきだったとの新たな反省を得るという苦い経験をしてもいます。
この時のカトリック教会の例は、何が正しいか、正しくないか(またはどの程度正しいか、どの程度正しくないか)を、その渦中に判断することがいかに難しいかということを示しているかと思うのですが、このときのカトリック教会のような例はむしろまれで、
上で列挙したとおり宗教がより積極的に戦争にかかわっているらしいケースもまた極めて多いことを認めねばなりません。
かかわりと因果関係
しかし、宗教がかかわっていることを認めることと、原因が宗教だと認めるということはまた別ではないでしょうか。
たとえば、文明の衝突ではないですが、文化同士の摩擦によって戦争が起こされるとする考え方もあります。
が、もしそれが正しかったとしても、それによって特定の文化じたいを、または文化というもの一般を、戦争の原因だとすることはナンセンスだと思いますし、
ましてや人間社会からある文化を排除するとか、世界を同一の文化にしてしまういうことなどは、ナンセンスなだけでなく不可能です。
同様に、宗教とは文化と切っても切り離せませず、似た性質を持つといえます。
ときに宗教は人々の精神的支柱として、文化の中核をなすこともあり、ヨーロッパの歴史からキリスト教の影響を、日本の歴史から、仏教や神道の影響をのぞいたらその文化的豊かさは全く色あせてしまうに違いありません。
そうしたことから、戦争の原因として文化そのものをやり玉に挙げるのと同様、戦争を否定するために宗教を否定することは、短絡的であり、また仮にそうだとしても、現実的な策はないのではないかと思います。
ただ、仮に現実的な策はないとしても、その問い自体が成立しないというわけではありません。その点で本当に戦争の原因が宗教たりうるのかという根本的な疑問は依然残されたままです。
これに関して私は、戦争に宗教が多く関わったからといって、その原因に宗教があると考えてはいません。
以下では、なぜそう考えるかについて述べていきたいと思います。
諸世界宗教の教義
その類似性
まず、世界宗教とよばれる規模になっている宗教は、根本はきわめて近いといえます。
仏教聖典を読み、聖書を読んでみると、その二者の近似性に驚きすら覚えます。キリストとブッダという、生まれた時代も場所も全く違う人々がこんなに同じようなことを説くという事実は大変に興味深いものです。
そして、他の世界的宗教もまた同様です。
仏教が
「自分のために他人を害してはならない」(感興のことば5集18)
と語るのに対し、
キリスト教は
「あなたがしてほしいように、他人に行いなさい」(マタイ7.12など)
と説き、
儒教は
「己の欲せざるところを、他人に施すことなかれ」(論語巻第八衛霊公第15、24)
と語り、
イスラム教は、
「自分のために望むことを他者に望むようになるまで、あなたたちは誰も本当に信じているとはいえない」(ムハンマド ハディース信仰の書6.1)
といましめ、
ゾロアスター教は、
「自分に害であることは何であれ、他人に対して行ってはならない」(Shayast-na-Shayast 13.29 )
と述べ、
ユダヤ教は
「あなたにとって憎むべきことを他人にしてはならない」(タルムード シャッバース31a )
とします。
これらはもう同じではありませんか?
確かに、そこにはまったく違いがないわけではありません。
たとえば「してほしいように、他人にしろ」と説くキリスト教はより積極的で、「されたくないことは、するな」とする儒教はより控えめといった性質の違いはあります。
そうしたことは文化とも深く関係しているように思われます。また書かれた言語も違いますし、細かい教義はそれぞれです。
が、それによって本質に違いは見出すことはできません。
世界的な大宗教であれば、おそらくすべて、このように本質は共通のものをもっているといえます。もっとも、そうでなければ、移り変わる歴史の中で長く残ることはできなかったでしょう。
宗教者たちの姿
また、こうした宗教の類似性のの帰結として、いずれの宗教においても、本当に高いところに上った信仰者だとか聖職者というものは、極めて似た雰囲気を持っています。
たとえば、ドイツから日本に宣教にきたイエズス会のフーゴ・ラッサール神父(1898-1990、のちに帰化、日本名;愛宮真備)は禅宗(曹洞宗)に感銘を受けたことから、
カトリック司祭として禅の修業をし、宗派の規則により公式には実現はしなかったものの曹洞宗から解脱者として認められています。
このことは、禅僧に師事して修行をしたラサール神父が曹洞宗の僧を認め、また曹洞宗の僧もカトリック神父を認めたものといえます。
神の名を語ることと宗教
こうしたことから、宗教そのものの性質は、どれも非常に近い上、本来的に戦争の原因とはなりえないもののように思われます。
そこで言える事としては、本当に信仰している人同士であれば争いが起きるべくもないこと、それでも起きるとしたら、そこには正しい情報が双方に伝わっていないかもしれないこと、もしくは、本当に信じてはいない者同士が戦争に際して宗教の名を語ること、などの可能性です。
9.11の実行者たちは、ほとんどがにわかイスラム教徒といいますか、もともとは特に信仰深かったわけではなかったといいます。
そうした本来のイスラム教にはたいした信仰心は示さなかった若者たちが、何らかのきっかけで本来のイスラム教から離れた危険な原理主義に傾倒したということは本当に残念なことです。
そしてまた、対するW・ブッシュ大統領が戦争に際し「神」の語を使ったことに関して、ヨハネ・パウロ二世は強い不快感を示し、反対の声明を出してもいます。
危険思想に宗教という名がつくとき
イスラム教原理主義は一応形式は宗教ですが、世には宗教という形をとらない危険思想集団もあります。
たとえば赤軍などは、一応は政治団体(?)です。
しかし、そんな赤軍が事件を起こしても、人々は「だから政治団体は危険なんだ」とか「政治行動というものは危険なんだ」というふうにはなりません。
というのも、人々は普段から本当の政治集団というものがどういうものかとか、政治的行動というものがどういうものかを知っているからです。
政治集団の最たるものである政党は民主主義に重要な役割を果たしていることを普通の人々は認識していますし、正しい方法でなされる政治的行動、たとえば署名やデモやストなどの有効性も普通の人々は知っています。
ですから、赤軍の行為でもって政治団体そのものとか政治活動そのものとかが悪いものであるとは通常人々は思わず、代わりに赤軍というものが真の政治団体ではなく、彼らによるテロは真の政治行動でもないと認識します。
ただ、それがあまり普段なじみのないものであったらどうでしょうか。
たとえば、それが宗教という形をとったときに、普段本当の宗教に触れる機会なく生活している人々にとっては、宗教というもの一般がそのような脅威に感じられてしまうことは想像に難くありません。
特に現代の日本人は、神道からも仏教からも形式的なつながりしか持たないことが普通ですから、あまり宗教に日常なじみがあるとは言えません。
ですから、とても本来の宗教とはいえない狂信的な団体が宗教の名の下に何か事件だとか戦争だとかを起こすと、宗教というもの自体に違和感を覚えてしまいがちです。それは人間の感覚として理解できるものでもあります。
もちろんそれは、他の国の人々が日本よりも宗教に寛容だという意味ではありません。
そうではなく、たとえばキリスト教圏でイスラム教になじみのない国では、本来のイスラム教を知らないから、イスラム教過激派の行動でもってイスラム教自体に悪いイメージを持つが、
キリスト教原理主義の過激な行動を見てもそれが本来のキリスト教とは違うことを肌で知っているから、キリスト教そのものには悪いイメージを持たない、そうした感じでしょうか。
実際、今これを読んでくださっている方は日本人がほとんどだと思いますけども、さきほどの僧兵についての文章を読んでも、だからといって仏教そのものが危険な宗教だとは思わなかったのではないでしょうか。
それはつまり、宗教とのつながりがうすい現代日本においても、仏教というものを肌で感じる機会がまだ残されているということかと思います。
きっとそれは私たち人間に共通する予想の仕方なのでしょう。
おそらく中世などの戦争の際には、情報が今以上になかったでしょうから、そのような感覚が双方にあったのかもしれませんね。
長くなってしまいましたので、
ここは世界宗教者会議の第一回世界大会において(1970年,京都)、
「平和の大義に背いてきたのは宗教ではなく宗教者である」との宣言が満場一致で採択されていることを記して、次にいきたいと思います。
戦争を起こすもの―ギリシャ喜劇から
何が戦争を起こすのか、それをはっきりさせることは不可能かと思います。
ケースごとにいろいろあるでしょう。そして、それらにはお互いの国において譲れない大義がかかっているのでしょう。それこそ、尊い人命が失われることすら霞んでしまうほどに。
しかし、こうした問題を考えるとき、私は決まって「女の平和」というギリシャ喜劇を思い出します。
これは古代ギリシャのアリストパネスによる戯曲です。
アテネとスパルタの戦争が長引く中、女たちはもう戦いに飽き飽きしていました。
そこで、敵味方両国の女たちが団結して、自分の夫たちに対し戦争終結を条件にセックス・ストライキを画策、
そうすると男たちは、今までいろいろと譲れない理由をつけていたはずだったのに、双方が和解を必死になって求め、迅速に戦争を終結させてしまう――という、下ネタ満載の話なのですが…。
これは極端としても、案外こんなものなのかもしれない、と。
思うに、本能とか、本能の最たるものである命より大事な大義なんて、めったにないものです。(ギリシャ喜劇の男たちには性的本能のほうが大きかったようですし)
そして、たとえそれを宗教に見つけたと思っている真摯な信仰者であっても、実際に宗教教義のために命を捨てることがどれだけ大変なことか。
たとえば日本には26聖人というカトリック教会に列聖された殉教者がいますが(もちろんこの26人だけでなく他にもいますが)、その背後にはその何倍もの転んだ(棄教した)信徒がいますし、
だからといってキリスト教徒が迫害される時代にあえて信徒となったその人たちが信仰熱心でなかったとはいえません。
人は、決意しても、やはり命が助かる道を示されると、そこにすがってしまうのが普通で、それでもあえて信仰を貫くのは本当に一部の一部、よほどの人のみです。
カトリック教会における聖人認定において殉教者が優遇される(非殉教者よりも列聖の条件がゆるい)のもそれゆえです。
そうしたことを思うと、多くの戦争において、たとえそれが宗教を隠れ蓑にしていても、ときにはそのために死さえいとわないと言っても、
それが純粋に宗教的な思いからであることはきわめて少ないのではないか、実際その背後にはそれを上回る何らかの要因 ――物質的な利益、そうでなければ復讐心とか名誉といった自分の欲と関連するものがあるのではないか、と思います。
こうしたわけで、やはり戦争なり諍いなり表面はいろいろと異なりますが、
結局のところ根本にあるのは、人間の欲、施政者や人民の欲や保身などであったりするのかな、という気がします。
そして私たち人間は、そんな自分の欲のためには、欲を捨てろと説いているはずの宗教までも利用する図太い生き物のようです。
戦争は古くからある人間の歴史の一部であり、それをなくす特効薬はありません。
私たちの中から完全に悪い心を追い出すことができないように、完全に戦争をなくすということもまたできないのかもしれません。
しかし、私たちがそれでも少しでも良い人間になろうと努力するように、私たち人類はそれでも地道な対話を繰り返していくことと思います。
歴史がどのように終わるのかはわかりませんし、これまでの歴史にも神は本当にいるのかと問いかけたくなるような悲惨な出来事も多々ありました。
が、神を信じる私たちは歴史の悲劇に絶望するものではありません。
なぜ、なぜと神に問いつつも、そしてたとえ、宗教が戦争をとめられないとしても、神は歴史を超えておられることを私たちは知っています。
ですから、神を信じる人は「絶望するときにも信じ」ていく、楽観主義者でいられるのです。
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