第三週;一致の道≪受難の観想≫(6)~「エッケ・ホモ」

イグナチオの霊操

受難の観想(第三週五日目ー1)

イエズスは鞭打たれ、いばらの冠をかぶせられる。
ピラトは、「見よ、この男だ」と言い、
イエズスに死刑を宣告し、群集の前で手を洗う。
(霊操295)


使徒たちは、受難のありさまを伝える。
マルコは事実を見つめ、マタイは預言の成就を思う。
ルカは主の姿に殉教者の模範を見、ヨハネは救い主を仰ぎ賛美する。

「見よ、この男だ」

 「見よ、この男だ」、ラテン語で「エッケ・ホモ(Ecce homo)」というこのピラトの言葉は大変有名です。
 ピラトは、いばらの冠をかぶせられた惨めな姿のイエズスを群集に示し、「見よ、この男だ」(本当にこの男を殺したいのか?との気持ちで、おそらくは群集の心変わりを期待しての発言――ピラトとて冤罪だと自分が思った以上、死刑にするのは気持ちの良いことではなかったでしょうから)と言います。
 しかし、激高した群集は十字架につけることを変わらず要求し、ピラトは自分に責はないとして、皆の前で自分の手を洗いました。

「エッケ・ホモ」の示すものは?

 それにしても、なぜこの「エッケ・ホモ」の語がそんなに有名になったのでしょうか。
 ピラトが、自分がこの激高した人々と戦いたくはないが、かといってわざわざ冤罪者を処刑したくもない、そのような中途半端な気持ちから、
おそらくはもうこれ以上の拷問を加えることを人々が自発的に踏みとどまってくれれば一番いいと考えて、
惨めな様のキリストを人々の前に引き出し、「見よ、この男だ」(「この人を見よ」等とも訳されます)と言ったにすぎません。
 そんな一言が受難の際の一つの有名なキーフレーズとなるというのも少し変に思えますが、どうしたわけでしょうか。

ローマ総督の口を通して語られたもの

 そのような語ですが、実は、この語は同時に、はからずとも真実を示しているとされるのです。
 おそらくピラトにそのような意図はなかったのでしょうが、この短いラテン語は、単に「見よ、この男(人)だ」というだけの意味を超えて、
「見よ、これは(真の)人間だ」とか、「見よ、これ(こそ)が人間だ」というような意味をもあらわします。
 それは、私たち人類が忘れるべきでない真実をしめしています。

 彼のこの姿こそは、人間の模範です。そして私たちは、苦しみながら、私たちの人生を彼に倣って進んでいきます。
 エルサレム入場時の歓喜の人々に囲まれたキリストでも、復活の勝利のキリストでもなく、
一番惨めだったキリストを指して、一つの真実がローマのユダヤ属州総督ピラトを通して語られたと言えるわけです。
 これが、この「エッケ・ホモ」が神の神秘を端的に、象徴的にあらわす言葉とされるようになった理由です。

 また、これは同時に多くの芸術作品のテーマともなっています。特に絵画において「エッケ・ホモ」の題名がつくものは無数にあり(もはや一つのジャンルとも言えるほどです)、その中には特に絵画に詳しい人でなくとも「あ、これもだったか!」という有名なものも珍しくありません。
 そういえば、何年か前にスペインのおばあちゃんが我流で修復して不思議なことになってしまった教会の絵画も、「エッケ・ホモ」でした。

おそらく近年では世界で一番有名な「エッケ・ホモ」。

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