十字架上の死
受難の観想(第三週六日目)
十字架上の死
「十字架上でイエズスは、七つの言葉を話された。
ヨハネを聖母に託し、聖母をヨハネに託した。
『かわく』と叫ばれ、『我が神よ、どうして私を見捨てられたのですか』と言われた。
『すべてが成し遂げられた』と言われ、そして『父よ、あなたのみてに私の魂を委ねます』と言われた。」
(霊操297)
「私の神、私の神、どうして私を見捨てられるのか」
エリ、エリ、ラマ、サバクタニ。
「私の神、私の神、どうして私を見捨てられるのですか」という意味です。
この言葉をもって、キリストですらあまりの苦難の中で神から見捨てられたと感じたと取ることもできます。
私たちは、時にそのように感じることもあるかもしれませんから、そのような取り方もわたしたちを力づけ、慰めてくれます。
が、もしかしたらこの言葉には、それ以上の意味もあるかもしれません。
キリストは、旧約の書物や律法のことをよく知っていました。人々は、なぜこのような大工の息子が多くの知識を持っているのかと驚いていました。
12歳の時には、神殿の境内で学者たちと話をし、その賢い受け答えに人々が感嘆していたというエピソードもありました。
そうしたキリストですから、この「エリ エリ ラマ サバクタニ」の言葉で始まる旧約の有名な書物があるとすれば、それを思い出していたと考えることもまた自然なのではないでしょうか。
そして、そうした旧約の詩篇が実際にあります。
それは、ダビデの賛歌といわれるものの一つです。興味深いことに、キリストの受難より何百年も前に書かれたにもかかわらず、受難の様相と不思議なシンクロを見せる部分もあります。
そして、何よりも重要なことに、その賛歌は絶望の嘆きで始まるものの、最後には神への賛美で終わるのです。
以下、全部を引用すると長いので一部割愛しますが、全体を大まかに載せます。
ダビデの賛歌 ~旧約聖書,詩篇22篇
私の神、私の神、どうして私を見捨てられるのですか。
なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのですか。
私の神よ、昼は、呼び求めてもこたえてくださらない。
夜も、黙ることをお許しにならない。
だが、あなたは聖書にいまし、イスラエルの賛美を受ける方。
私たちの先祖はあなたにより頼み、より頼んで救われてきました。
助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたにより頼んで、裏切られたことはありません。
神よ、私は虫けらです、人間ではありません。
人間の屑、民の恥。
私を見る人は皆、私をあざ笑い、唇を突き出し、頭を振ります。
「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう」
私を母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
母が私を身ごもった時から、私はあなたにすがってきました。
……略……
口はかわいて素焼きのかけらのようになり、下は上あごに張り付きます。
あなたは私を塵と死の中に打ち捨てられます。
犬が私を囲み、さいなむ者が群がって私の手足を砕きます。
骨が数えられるほどになった私の体を、彼らはさらし者にして眺め、
私の着物を分け、衣をとろうとしてくじを引きます。
主よ、あなただけは、わたしを遠く離れないでください。
私の神よ、今すぐに私を助け出してください。
私は兄弟たちに御名を語り伝え、あなたを賛美します。
主を畏れる人よ、主を賛美せよ!
ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。
イスラエルの子孫は皆、主を畏れよ。
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、蔑まれません。
御顔を隠すことなく、助けを求める者の叫びを聞いてくださいます。
それゆえ私は、おおいなる集会で、あなたに賛美を捧げ、神を畏れる人々の前で満願の捧げものを捧げます。
貧しい人は食べて満ち足り、主をたずね求める人は主を賛美します。
いつまでも健やかな命が与えられますように!
地の果てまで、すべての人が主を認め、御許に立ち返り、国々の民がみ前にひれ伏しますように。
王権は主にあり、主は国々を治められます。
命にあふれてこの地に住む者はことごとく、主にひれ伏し、塵に下ったものもすべて御前に身をかがめます。
私の魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、
成し遂げてくださった恵みのみわざを民の末に告げ知らせるでしょう。
(詩篇22)
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