第三戒 「主の日を心にとどめ、これを聖とせよ」

まじめな教義・聖書の話

こんにちは。
第三戒「主の日を心にとどめ、それを聖とせよ」を見たいと思います。

出エジプト記の個所

この第三戒(多くのプロテスタントなどでは第四戒)の元となった箇所は、以下の通りです。

安息日を心にとどめ、これを聖別せよ。
六日の間働いて、なんであれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。

あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記20)


このくだりが、第三戒の出所となっています。

 実は、私は、この戒がなぜ作られたのかを、がっつり説明した文章を読んだことがないので、特にお伝えできることがありません…。
(でも、十戒を一個ずつ取り上げてみようと思ったので、これを飛ばすわけにもいかず…。)
 一応、うっすらと聞いたことのある説明などとともに、まとめてみたいと思います。。

宗教的意義と現実的な有用性

宗教的な意味として

 まず、宗教的な意味としては、働かない日を1日とるということは、私たちをまかなってくださる神様への信頼をあらわしていると言われます。

 モーセに導かれて旅するユダヤ人たちは、マンナを集めて食べましたが、通常は、欲張って(もしくは明日のことを心配して)次の日の分まで取っておくと、腐ってしまっていました。この場合の、次の日の分まで集めるとは、つまり「明日の分は神が明日くださる」という信頼を持っていないということの表れだったからです。
 しかし、6日目に集めた分だけは、翌日まで取っておいても腐りませんでした。神様が、「明日は7日目だから、集めるという労働をしなくてもいいように」と計らってくださったからです。
 
 とは言え、古今東西、善人でも、何の罪もなくても、神を信じていても、飢えで亡くなった人々が無数にいるという現実を思うと、これをどの程度文字通りにとっていいかわかりませんが…。
 心構えとしてということか、象徴的な何かなのか。

 ただ、確かに、思い煩ったところで、私たちにできることは限られていますから、人事を尽くしたら神にまかせるという気持ちは、人事を尽くしまくるだけというのと比べて、人生を大きく(きっと質的には豊かに)変えると思います。

個人の生活習慣として

 また、7日に一回、日常を少しだけ離れて、ミサにあずかり、神様に思いを馳せる時間を取る、というのは、現実として、なかなか良いサイクル、良い頻度だなあ、と思います。
 こういうふうにルールとして決めないと、なかなかそういうことをしない時期もあると思いますし、また仕事などを6日間ある程度集中して頑張って、そのあと、1日振り返る時間をとる、というのは、なかなか長期スパンすぎず短期スパンすぎず、仕事にとっても、自分自身にとっても、良い塩梅ではないかと。
 こういうのは、現実的に、個人の生活への手助けとなるのかなという感じがします。

社会的意義として

 最後に、「息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も」と書いてあるところは重要ではないかと思います。
 奴隷でも家畜でも、また難民などのようにただ私たちのコミュニティーにお世話になっているだけの人々も、この7日目に休む権利があると言っているのですから。
 この点は、宗教的な意味のみならず、労働環境と言いますか、社会的な意味がある感じもします。

 旧約の律法は、宗教的な意味のみならず、個人/社会へむけて現実的な意味を持つものも多くありますから、もしかしたら、この戒もまた、そうした複数の意味あいを含んだものだったのかもしれませんね。
 今日も、読んでくださって、どうもありがとうございました。

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