小さき花の聖テレジア(3)~この世での足あと;修道院入会まで

まじめな教義・聖書の話

こんにちは。
 今回は、小さき花の聖テレジアの三回目で、彼女のこの世での日々について少しつづりたいと思います。

幸せだった幼年期

 テレーズ・マリア・マルタンは、ルイ・マルタンとゼリーの末子として1873年にフランス・アランソンにて生まれました。
 母ゼリーにはそのときすでに乳がんの兆候があったため、自分の母乳で末子を育てることは叶わず、テレーズは一時期乳母のところに預けられました。
 とはいえこの乳母は自然体で気取らない人で、赤ちゃんだったテレーズはのびのびとした時間を過ごすことができたようです。

 そして1歳で実家に戻ってきたテレーズは、その利発さと可愛らしさも手伝い、末っ子として特に可愛がられました。
 当時の彼女のエピソードのひとつとして、テレーズは豪華に着飾った女性や美しい宝石などを見ると恐れて泣き、農婦などの質素な格好の人を好んだというものがあります。
 周囲の人は、ふつう小さい女の子はきれいに着飾ったお姫様やきらきら光るものが好きなものなのに、と驚きました。
 それはあたかも、このような小さな時から、表面的な美しさのなかにひそむ虚栄やうぬぼれの危険を感じ取っていたかのようでした。

 また、お話ができるようになると、彼女はあふれる愛情を精一杯表現せずにはいられない子になりました。時に少しだけ風変わりでもありましたが。
 あるとき小さいテレーズは、母ゼリーに満面の笑みで、
「ああ、ママ大好き、死んで!」
と言ったそうです。
 ゼリーが驚いて、なぜそんなことを言うのかと問うと、テレーズは、
「だって、天国は一番素晴らしいところで、死なないと行けないんでしょう?」
と答えました。
 そして、パパにも、大好きでたまらないとき「死んで!」と言っていました。
 周囲の人は驚愕したでしょうが、なんというか、きっと彼女は生まれながらに、この世のもの以上に神様の世界を想う性質だったのでしょう。
それにしても、「死んで!」はあんまりかと思いますが。

母の死とテレーズの痛み

 しかし、そんな幸せな幼年時代は長くは続かず、彼女がわずか四歳のときに母ゼリーは乳がんで亡くなってしまいます。
 このことが感受性の強いテレーズにとってどんなに衝撃的な出来事だったか想像に難くありません。
 彼女の繊細な心は、神の栄光を喜ぶ以上に、過度にこの世の不幸を悲しむ方向に向かってしまい、この後おそらく今で言う神経症的な状態となっていってしまうのです。

 テレーズは八歳半のとき、ベネディクト修道院付属の学校に通い始めましたが、この学校時代はテレーズにとって生涯で最も辛い五年間だったと回想しています。
 彼女は、勉強はとてもよくできたものの、彼女は周囲の子供たちと上手く付き合えませんでした。
 四つ上の姉のセリーヌが同じ学校にいることが救いでしたが、セリーヌが学校を卒業すると、テレーズはもう学校に行くことができなくなってしまい、五年間で退学して、パピノー夫人という教養ある女性からの個人授業を受けることになりました。

 そして10歳の時に愛する姉のポリーヌが修道院に行ってしまったことで母を 二度失ったような気持ちになったのでしょうか、この後特に調子が悪くなり、
 11才頃には往診した医師も原因がわからないという奇病によって(今でいえば何らかの精神的な発作だったのかも?)、
 けいれんのようなものを起こしたり、ベッドに座ったまま頭を壁に打ち付けたり、幻覚を見たり、また姉たちを見分けられなくなるというほどの状態になってしまいました。

 ですが、彼女はそのような中ひたすらマリア様を思い続けました。
 そしてある時、マリア様のご像を眺めていたところ、そのご像のマリア様が微笑んでくださったように見え、そしてその瞬間、医師もずっと何も出来なかった自分の病気が癒されたことを感じました。
 そして、それを境に、彼女は実際に癒されたのです。
 これをただの彼女の気の持ちよう、ということもできますが、精神的な病や発作などは気の持ちようですぐにどうにかなるほど単純なものでもないでしょうから、
 そこにはやはり超自然的な神様からの手助けがあったのではないかと思います。

本来の自分に戻って

 さて、一度はこうして感受性が間違った方向にいって病気にまでなってしまった彼女ですが、 それを克服してからは、前向きになり、昔の微笑みを取り戻したように実感するようになりました。
 そして、かつての両親や姉たちのように、修道院ですべてをささげたいという召命を強く心に感じはじめたのです。
 この頃の彼女の状態を示すエピソードをひとつだけあげるとしたら、テレーズ14才頃の、ある死刑囚にまつわる出来事がよいかと思います。
 当時フランスでは、アンリ・ブランチーニという連続殺人犯が世をにぎわせていました。
 彼は成人女性二人と少女一人を殺した罪で死刑を宣告されていましたが、まったく懺悔の気持ちを表しておらず、世間からこれ以上なく軽蔑・嫌悪されていた人物でした。

 テレーズは、そんな彼が回心をするように必死で祈りました。彼が悔い改め、地獄を免れますように、と。
 そして、死刑執行のその日まで全く悔悛の情を見せなかった彼でしたが、いざ断頭台に頭を乗せようとする瞬間、本当に最後の瞬間に、振り返って近くにいた司祭から十字架をとり、その十字架に接吻したのです。
 それは、彼が自分の罪を認め、改心して死んでいったことの証しでした。
 テレーズはこれを新聞で読んで心から喜び、14才の彼女はアンリ・ブランチーニを 「わたしの最初の子供」と呼びました。
 そしてこの経験から、彼女はますます、修道女となって神の愛が必要な人々のために自分のすべてを捧げて取り成しをしたいという思いを強くしたのです。(補則: このエピソードはカトリック内の死刑容認派から出されることがありますが、カトリック教会は基本的に死刑に反対しています。)

教皇謁見

 さて、修道院への召命をはっきりと感じたテレーズは、修道院に入れる年齢の16才まで待ちたくありませんでした。
 15才で、もう今すぐにでも修道院に入りたいという強い願いがありましたが、やはりルールはルール、どうにもなりません。
 その頃父マルタンは、教皇レオ13世の制定した「聖年」の記念として、ローマに巡礼旅行をすることを計画していました。
 そこで、テレーズは教皇様に謁見できれば、15才で修道会に入れてもらうことをお願いしようと考えました。

 バチカンを訪れた大勢の巡礼者は、順番に教皇様の前に進み出て、祝福を受けることができましたが、同時に一定の距離以上近づきすぎてはいけない、話しかけてはいけないという保安上・時間上のルールもありました。
 自分たちの番になって、自分たちが教皇様の前に出たときには、さすがに一瞬テレーズはひるみましたが、
セリーヌの「ほら、いま言うのよ!」という目配せに覚悟を決めて、教皇様に近づき、
「どうかわたしが15才でカルメル修道会に入る許可をください」
とお願いしました。
 教皇レオ13世はそんな彼女にやさしく、
「神様がお望みなら、そうなりますよ」
と答えられましたが、やはりそれは15才で入ることを許可するものではありませんでした。
 そして、規定を破って教皇に近づき、話しかけたテレーズは二人のスイス武官に両腕をとられ、引き下がらせられました。

 この出来事は、若く可憐な少女のドラマチックな信仰ゆえの無謀さとして、好意的に人々の口に上るようになりましたが、同時に「自分を見せびらかせた」という陰口も引き寄せてしまいました。
  この教皇に謁見したときのことをテレーズは「わたしは教皇様の足元に身を投げ出し、 涙でぬれた瞳を上げて…」等と感傷的な言葉で書き綴っています。
 もちろんそれは本当に真実なのでしょうが、なんというか、たとえば十代前半頃の赤毛のアンがやけに芝居がかった振る舞いや不自然に美しい言い方を好んだこととかと、もしかすると少し似ていたのかもしれません。
 そうした若い少女の、”傍から見るとちょっと浸りすぎだったりするけれど、本人は本気でやっている大仰な言葉遣いや振る舞い”というものは本当に可愛らしいのですが、 場合によっては他の人の気に障ってしまうこともあるものです。
 このときにテレーズが受けてしまった陰口というものは、そうした性質のものだったのかなと思います。

 この後、人生の早くに修道院に入ったテレーズは24才で亡くなりますが、修道院の中ではこうした俗世的な悪口にもまれるという機会は乏しかったのか、
 成長するに従い自然に大げさな言葉を手放したアンと違って、テレーズは終生こうした性質を手放すことはなかったようです。
 実際こうしたことから人生の終わり近くにも手痛い経験をしてしまっています。
 もっとも、そうした痛みをかわらぬ自分の弱さを知るよすがとし、感謝するのがテレーズなのですが。
 さて、そうした出来事についても書きたいのですが、また今回も長くなってしまいましたので、この辺でまたいったん終わります。
 次回、修道院入会からその後のことを書いていきたいと思います。

 あ、今回も父マルタンはほとんど出てきませんでした。うっかりしていました。
次回はもっと存在感を発揮するはずです。
 今回も、読んでくださってどうもありがとう。

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