小さき花の聖テレジア(5)~この世での足あと;修道生活と帰天まで

まじめな教義・聖書の話

 こんにちは。
前回ではテレーズ・マルタンが修道院に入ってから、父ルイ・マルタンが亡くなるところまでを辿りました。
 今回は、その後の修道生活におけるテレーズの足どりを辿ってみたいと思います。

日々の修道生活

小さい砂粒

 さて、テレーズの修道生活の足どりをたどる、とは言ったものの、実はそれも少し難しいところがあります。
 というのも、実際テレーズは日々の修道生活において、何も目立ったことをなしてはいないからです。
 テレーズが結核になり、地上での人生が残り短いとわかったとき、ある修道女たちが、
「彼女が亡くなっても、回状(他のカルメル会修道院にあてて書く故人についての思い出話)に書くことが何もありません、どうしましょうか」
と話していたのをテレーズは耳にし、とても満足に感じたと言います。
 テレーズは、小さい者、小さすぎて神様以外の誰にも気づかれないような者、そして小さな砂粒のように踏まれても痛いという様子などは見せない者になるということを目指していましたから、まさにそれは彼女の願ったことだったのです。

福音の厳しさよりも子供の信頼

 しかし、一方で誰にも知られぬ内面においての彼女の霊的な進歩は大いなるものでした。
 修道生活の当初は、ヤンセニズム(人間の罪深さと神の厳しさを強調した考え方)の影響もあってか、テレーズも聖性とは功徳を積み重ねることによって勝ち取るものと考えていたようです。
 しかし、時がたつにつれ、
「功徳とは、多くのことを成し遂げるのではなく、多くを受け取ること、多くを愛することにあるとわかってきました」
と述べるようになっていきます。
 それは、神への信頼とともに、いくら努力してもできない自分や、いくら望んでも助けることのできない愛する父という、厳しい毎日を生きることで得た、一種の悟りのようなものであったのかと思います。
 もちろん自分の無力さを痛感するだけでなく、そこには、それより大きい神への信頼があることが大前提です。
 ただ自分の無力さにうちひしがれるだけであれば、それは虚無主義へと流れる危険もありえます。
 ですから、それは自己の弱さを受け入れるとともに、神の全能と愛情を信頼していればこその強さです。
 愛の賛歌(参照;小さき花の聖テレジア (1)~か弱い小鳥が鷲の野望を持ち)のみならず、現代の聖人テレーズは使途聖パウロと時代を超えて共鳴しているよう です。
「私は自分の弱さを誇ります。
 私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
(パウロの第二コリント人への手紙12章10節)

若き修練女へのアドバイスと自身の修道生活

 また、修道生活もしばらく経つと、テレーズの下にも新たな修練者(修道女見習い)が入り、院長の補佐として指導役を任されるようになります。
 彼女の指南は全く興味深いものでした。
「獲得しなければいけないいろいろのことを考えると」と言う修練女に対し、
テレーズは、
「むしろ失わなければならないこととおっしゃい。
あなたが欠点を取り除くにしたがって、イエス様はすばらしいもので満たしてくださるのです から。」

と言い、
またその修練女が自分の至らなさに失望しているのを見たときには、
「あなたは、やっとたつ事ができてもまだ歩くことのできないまったく小さな子供のようですね。
階段の上にいるママのところに行きたくて、最初の一歩を踏み出そうと小さな足を上げるのですが、全然だめ!いつも失敗してしまいます。
そうです。いつもこのような小さな子供でいらっしゃい。」

と諭すのです。
 例にもれずこの若き修練女も、自分がもっと大きくならなければならないと思っていたのですが、テレーズはそれ以上に謙遜が大事であることを知っていました。
 それにしても、末っ子テレーズがお姉さんのようになってアドバイスを与えているさまは、想像するとなんだかほほえましいですね。

 また、自身の修道生活について、テレーズはこう述べています。
「この道は、進めば進むほど目的から遠く感じるのだと今になって(修道生活7年)わかります。
ですから、自分がいつまでたっても不完全なのを見ても、仕方がないと思い、この事実に喜びさえいたします。」


「この家(カルメル会)に来て、もう9年にもなりますのに!
もう完徳の道にかなり進んでいなければならないはずです。
ところが、実際にはまだ階段の下に立っている始末です。
それでも、それで気を落とすこともなく、セミのように快活にしています。」

レオ・タクシル事件

 さて、先ほど、テレーズは修道生活中に人に知られる目立ったことは何もしていないと書きましたが、実は一度だけ、なんとも意に沿わないやり方でほんの少し有名になってしまったことがあります。
 当時、フランスではカトリック教会とフリーメーソンの対立が激化していました。
フリーメーソンとは、人類の友愛を目的とする団体です。
 元々はこの団体に特に反宗教的な意味合いがあったわけではありませんでしたが、当時のフランスにおいては、フリーメーソンは反カトリック教会体制を公に示すようになっていました。

 そのような中、レオ・タクシルというジャーナリストが、
「フリーメーソンの中にダイアナ・ヴォーガンという米国人女性がおり、彼女はカトリック教 会を崩すための活動を非常に精力的に行っている。」
という記事を面白おかしく書いて話題となりました。
 そして、話はそれで終わらず、タクシルの記事はさらに、
「ところが、そんな彼女は、最近になって劇的回心をした。
彼女は、自分がカトリック教会に与えた害を償うため、修道女となって祈りの生活をしたい、そして、その回心のきっかけになったのは、ジャンヌ・ダルクのとりなしのおかげである、と言っている。」
と報じたのです。
 これは当時のカトリック教会や信者たちから大変喜ばれるニュースとなりました。
もちろんそれはテレーズも同じでした。
 しかもテレーズはジャンヌ・ダルクのことが大好きで、修道院内の出し物でジャンヌ・ダルクの劇をやったこともあるくらいでしたから、テレーズはこの米国人女性の回心を特に喜び、親密に感じたようです。
 そして、テレーズはそんな見知らぬ米国人女性へ思いをこめて、手紙と自分がジャンヌ役を演じたときの写真を送り、後日彼女からとても温かい返事が送られてきました。
 それは、姉たち以外には友達がいなかった内気なテレーズに、はじめての友情が送られたかのように思われたかもしれません…。

 さて、カトリック教会もダイアナ・ヴォーガンを歓迎する意を示し、この米国人女性はフランス中での話題の人となりましたが、しかし、どれだけ大きなニュースになっても、彼女はまったく表に出てきません。
 ダイアナの窓口となっているレオ・タクシルは、彼女が表に出てこないのはフリーメーソンによる復讐を恐れているからだと説明していましたが、
それでも人々の興味・熱意はおさまらず、ダイアナはとうとうパリで、レオ・タクシルに付き添われ記者会見を開くことになりました。
 1897年4月19日、パリにフランス中の記者が詰め掛けて、渦中の人ダイアナ・ヴォーガンの登場を待っていました。
 会場には、ジャンヌ・ダルクの衣装をまとったテレーズの写真が大伸ばしにされて飾られていました。
 ところが、レオは姿を現したものの、ダイアナはいつまでたっても現れません。
約束の時間になって、ついにレオ・タクシルはタネ明かしをします。
 ダイアナ・ヴォーガンなる人物は存在しないのだと。

 これは全て、いかにカトリック教会やカトリック信者たちがだまされやすいかを証明するために、レオ・タクシルが作り上げた架空の物語だったのです。
「こんなかんたんな作り話を、教皇レオ13世を始め多くの人々が真に受けたのだから、カトリック教会の作り話が多くの人に信じられるのも当然だ」
というのが、レオ・タクシルの主張でした。
 教皇様はじめ多くの人々がだまされたことは事実であり、そして、若きテレーズの写真は道化のような使われ方をされてしまいました。
 テレーズがどれだけ傷ついたかわかりません。

 もっとも、テレーズが傷ついたというのは、もちろん自分がそのように恥さらしのような使われ方をしたこともあるでしょうが、
それ以上に、それは自分が”光るもの”を求めてしまった結果だったということかもしれません。
 ジャンヌ・ダルクの衣装を着た自分の写真とは、テレーズが常に目標としていた”小さくて誰からも気づかれないもの”ではなく、
むしろ避けなければと自分に言い聞かせていた”人の中にあって光るもの”に近かったようにも思われるからです。
 日々自分を律しようとしていたテレーズですが、この劇的な回心のニュースに、(そしてその女性が自分も大好きなジャンヌ・ダルクに言及したこと、そして彼女が自分と同じ修道生活を希望しているということに)喜びのあまりつい気持ちが舞い上がってしまったのかもしれません。

 そうしたことで、かつて教皇様の前に身を投げ出し、直接自分の願いを伝えたときのように、そこにはテレーズの(信仰が基礎ではありましたが)、ドラマチックなものを好む性質が透けて見えてしまったように思われたのでした。
 そして、狡猾な人というのは、善の中にでも、ほんのちょっと見栄や光るものを求める要素があるとそれに的確に瞬時に反応し、さらに大きく引き伸ばしてみせるのです。
 そうして、若い修道女や一般の信者たちのみならず、教皇レオ13世までをだましたのですから、詐欺師レオ・タクシルにとって今回のたくらみは大成功だったのでしょう。
 実にたった一人の人物がなしたものとしては、希に見る大きな教会への攻撃でありました。

 しかし、現代では、このレオ・タクシルの名前を、この悪質なジャーナリズム詐欺事件以外で知る人はほぼいないでしょう。
 一方で、彼が自分の悪巧みに利用した小さなテレーズの名前は、世界に知れ渡っています。
ですから、大きな目で見れば、結果は明らかです。
 人の悪意とは一時的にセンセーショナルな話題になっても、それ以上のものにはならないものです。

信仰の暗夜からの帰天

暗闇での信仰

 ただ、この事件によってテレーズはまた違った苦しみを味わうことにもなります。
 この世での最後の日々、彼女は「信仰の暗夜」におそわれるのですが、このレオ・タクシル事件の記憶がそれに追い討ちをかけたのです。

 信仰の暗夜とは、信じたいのに信じることができない、神を信じたいのに神がいると思えない、そういう苦しい心の状態を指します。
 信じることが出来ない状態なのに、それでも「信仰の」という名がつくのは、これはただの無信心の状態ではなく、自然にはどうしても信じることができないけど、意図的に信じる、信じることにする、信じることを続ける、というスタンスだからです。

 マザーテレサも、実はずっとこの信仰の暗夜にあったということが死後になって知られましたが、実は、こうしたものは他の多くの聖人の人生にも珍しくありません。
 子供の頃のように、人生も世界もすべて一手につかさどる神を単になんの疑問も持たずに信じるには、人生は入り組みすぎていますし、世界は大きすぎるように思えます。
 それは通常の感覚とも言えるでしょう。
 しかし時に、そうした人間的な感覚に対して、それでもなお、と言う理性の選択が信仰でもあるのです。
 ですから聖人とは、なにも子供のように信仰に疑いを持たないだけの人ではなく、疑いを持つときでも、それでもなお信じることを選択し続ける大人のことでもあります。

 そして、若くして修道院に入り、外的な危険にはおよそさらされたことのないテレーズもまた、信仰の暗夜という内的な危険には大いにさらされました。
 それは、結核を発病し、この世での生が長くないことがわかってからのことのようです。
 あれだけ幼い頃から愛した神さまが、本当はいないのではないか、死んだらそこには虚無があるだけではないか、体の苦しみとともに、そうした恐怖とも戦う最後の日々を過ごしました。
 反カトリックの社会的渦の中にありつつカトリック教会の子供として生きてきた彼女ですが、最後の日々になって、もっとも苦しい試練が待ち構えていたのです。
 無神論に対する戦いというものは、思想的な試練の中で最も厄介なものとも言え、どんなに優秀な神学者でも勝つことはできません。
 人間である限り、真にそれを論破できる人はいないのです。

 しかしながら、苦しみの中でもテレーズは、小さい道のやり方でそれに正しく対処しました。
 つまり、近づいて理屈をこねることで打開しようとするのではなく、自分の小ささを知り、目をつぶって、神様にひたすらすがるのです。
 そうして、さらにはその苦しみすら自分の弱さを受け入れるよすがとし、その苦しみを神様に捧げました。
 逆説的に思えるかもしれませんが、それが何も見えない暗い夜に見えない神を慕う信仰だと言えます。
 彼女は言います。
「死を目の前にして、自分が不完全であり、神の慈しみをこんなに必要としているのを実感するのはなんと幸いなことでしょう」

「命の夕べに、私は空っぽの手で(なんの手柄もなしに)神様の前に出ます。
私に何の手柄もないので、神様は自らの業で報いてくださるでしょう」

帰天

 暗夜の中で神を求めるテレーズでしたが、彼女の死がますます近づくにつれて、さらに、なんらかの変化が彼女に訪れました。
 それまで全く謙遜であった彼女ですが、臨終の直前の日々になって
「私の命の終わりとともに、私の使命が始まります。
世界の人々に、小さな道を知っていただく使命が!
私は世の終わりまで、私の天国を地上で過ごすでしょう…
救う人々がいる限り、私は休むことはありません」

と言いはじめたのです。
 これは、それまでずっと小さい者であることを目指し謙遜であった彼女の言葉とはまったく性質の違うものであることから、彼女はこの時期に、なんらかの超自然的な体験をしたのではないかと言われています。

 実際に、この時点では彼女は全く無名であり(レオ・タクシルに利用された気の毒で純真な世間知らずのシスターという以外)、
彼女の内的な世界がここまで大きなものであったとはまだ同じ修道院の修道女たちにすら知られていませんでしたから、
彼女の書いたものが出版される、ましてや世界に広がるなどとは誰も夢にも思わなかった頃です。
 そのような中で、臨終間近の病床で弱っていたテレーズが一人、小さい道が世界に広がると確信に満ちた言い方をし始めたというのは、何かの神秘的な要素がそこにあったと考えるのが確かに自然なように思われます。

死の前日には、医師とともに訪れた院長に向かい、
「院長さま、私の臨終はまだでしょうか」 とたずねました。
 結核によって、皮と骨だけになった体で、息をすることも難しい中での問いでした。
それに対し院長が
「ええ。でも神様はもう少し時間を延ばされるかもしれません」 と答えたのを聞くと、
「そうですか!ならばもっと苦しんでもかまいません!」 と答えました。

 死の当日、彼女は、
「こんなに苦しむことができるとは思っていませんでした。
まったく思いもしませんでした!
それは、人々を救いたいという私の願い以外では、説明することができません…」

と息も絶え絶えに伝え、
そして、
「神様、あなたを愛します…」
という最後の言葉とともに息を引き取りました。
 最後の時には、うっとりとした幸せな表情を浮かべていたということですので、その時には完全に信仰の暗夜から逃れ、むしろ何らかの幸せなビジョンを見ていたのかもしれません。
 1897年9月30日の午後7時過ぎのことでした。

 告別式は10月4日に行われ、テレーズの遺体はカルメル会修道院墓地へ埋葬されました。
 土砂降りの雨が降る中、その行列の先頭は、修道院から三度目の帰宅を余儀なくされるも、もはや帰る家もないため、叔父のゲラン家で暮らしていたレオニーでした。

帰天の後に

 そして、その後、この物語はあれよあれよという間に急展開していきます。
 テレーズ帰天の次の年、彼女の最初の本が出版されました。(『ある魂の物語』)
 それは、元気な頃に姉たち(マリーとポリーヌ)に言われて書いた手記二つと、 病を得てから「何も書くことがない」と言われた回状のため、院長から言われて書いた手記一つからなる、テレーズの思い出や彼女の小さい道についての話でした。
 これは、せいぜいカルメル会会員たちとテレーズの親戚などに読まれることを想定したものであったのですが、それが重版に重版を重ねることになるとは誰が想像していたことでしょうか。

 そして、テレーズの死後、35歳のレオニーは聖母訪問会の扉を再び叩きました。
 すでにクララ会から一回、聖母訪問会から二回、帰されたことがありましたから、それは聖母訪問会へは三回目の、修道生活自体へは四度目の挑戦でした。
 しかし、しばらくするとまたレオニーは無気力におそわれ、生ぬるさのなかでドロップアウトしかけそうになってしまいました…。

そんなある冬の日、レオニーは修道院の聖堂で、疲労してやる気をなくし雑念とともに教会の祈りを唱えていました。
 すると、まばゆいばかりの光が祈り本の上に留まったのが見え、レオニーはそれが懐かしいあの妹の手であることに気づきました。
 そして、妹が自分を教会の祈りにもう一度連れ戻しに来てくれたことを感じ、再び修道生活への熱意を取り戻し、この後40余年、亡くなるまで、見事に修道生活を全うしました。
 テレーズが、立派にやっている他の姉妹たちにではなく、レオニーにのみこのように特別な仕方で現れたことは、なんだかとても嬉しい気持ちがします。
 そして、テレーズに天から助けられつつ、レオニーは聖母訪問会修道女として1941年78才で帰天しました。

 またその後も、テレーズの取次ぎによって病気が治癒したとか、助けられたとかとの報告が相次ぎ、テレーズ帰天の13年後には、早くも列福調査が始まり…、
1923年列福、1925年列聖、そして1997年教会博士の称号授与と、一世紀の間にこの小さな花の修道女の説いた小さな道は世界中を駆け巡りました。

日本へも

 そして、それはもちろんヨーロッパからずっと東の果てまで届いています。
 テレーズの帰天の四年後に、パリ外国宣教会のシルバン・ブスケ神父が、宣教活動のため大阪に派遣されることなり、その際にテレーズの姉ポリーヌから励ましの言葉をもらっています。
 彼は日本においてテレーズの手記を翻訳出版することに尽力し、1911年(テレーズ帰天のわずか14年後)の日本語初版は一ヶ月で売り切れとなり、短期のうちに何度も版を重ねることになりました。
 明治期にこれほどのベストセラーとなっていたとは驚きです。読者はカトリック信者に留まらず、プロテスタントや仏教徒の愛読者もまた少なくなかったようです。
 実は、あの宮沢賢治の詩の中にも、この聖テレジアが出てくる箇所があるんですよ。(『装景家と助手との対話』1927)
 彼はもちろん敬虔な仏教徒でありましたが、文化・宗教を超えて響くものがあったのでしょう。
 そう思って彼の詩を読むと、ああ、なるほど、という気がします。

『雨ニモマケズ 風ニモマケズ
 ……
 日照リノトキハ 涙ヲナガシ
 寒サノ夏ハ オロオロアルキ
 ミンナニ デクノボート呼バレ
 ホメラレモセズ クニモサレズ
 サウイウ者ニ ワタシハ ナリタイ』


 今日も読んでくださってどうもありがとう。
 ところで、レオ・タクシルですが、テレーズ帰天後どんどんテレーズの評判が上がっていく中、彼は新たに本を出版していました。
 その本とは「詐欺師にだまされないための買い物の仕方」。(1904年)
ブレないというか、たくましいというか、何というか。
 これがエスプリというものでしょうか。
もうここまで来ると天晴れです。

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