小さき花の聖テレジア (1)~か弱い小鳥が鷲の野望を持ち

まじめな教義・聖書の話

産毛の小鳥、小さき花

 こんにちは。
小さき花の聖テレジアは、現代でもっとも人気のある聖人のひとりではないかと思います。
 ですが、彼女の完徳の道は、他の聖人方とずいぶん感じが違います。 彼女は自分の弱さをひたすら認め、受け入れるところから始めるのです。
 もちろんどのような立派な能力や功績をお持ちの聖人であっても、必ず弱さはあり、優れた人ほど自分の弱さを知っているものです。すべての徳は謙遜から始まるからです。
 しかし、その中でもテレーズ(フランス語読み。ラテン語読みでテレジア)は、特に”弱いもの”であることを徹底して受け入れようとしたと言えます。

 彼女は実際に体も弱く、また心も繊細すぎてというのでしょうか、学校のような環境に耐えられない。
 原因不明の心の病気を発症したときもあります。(そのときには、マリア様のご像を眺めていて、マリア様の愛を感じ、病から癒されました。)
 彼女は15歳で修道院に入り、そのまま修道院から出ることなく結核によって24歳でその生涯を終えました。
 彼女は聖性にあこがれていました。
 しかし、聖人方が鷲のように空高く完徳の道を進んでいくのに対し、自分は全く飛べないひな鳥のように無力なものであることも知っていました。
 ですが彼女は、「神さまが実現できない望みを起こさせるはずがない。だから小さな私でも聖なる徳へ進む道があるはずだ」と信じ、小さきもののための道を探しました。
 今日は私たちも彼女の道案内で、この小さな道をちょっとだけのぞいてみたいと思います。

テレーズの言葉

以下、彼女の遺した手紙などからの抜粋です。

「うぶげの小鳥(彼女自身のこと)にできることと言えば、その小さな羽根を少し上げるのが やっとで、飛んでいくことなど、彼女の小さな力の及ぶことではありません。」

「すべての徳の実行にあたって、聖性の階段をよじ登ろうといつもあなたの小さな足を上げてください。
 それでも最初の一段さえ上がることはできないでしょう。
 けれども、神様はあなたの善意だけをごらんになり、そのうちに何にもならないあなたの努力をみかねて、

神様ご自身み腕にあなたを抱え、み国に連れて行ってくださるでしょう。」

「困難を乗り越えるには、わたしはあまりにも小さな者です。ですから、もっと小さくなって下をくくるのです。
 物事の下を通り過ぎるとは、あまり近づいてみたり、理屈をこねないことです。」


「徳を実行したいと望まない人がいるでしょうか。それは誰にでも共通する道です。
 しかし、倒れたり、弱かったりすることを承諾する人、自分がころび、他の人がその現場をおさえるのを喜ぶ人はなんと少ないことでしょう。」

「あなたは完徳の山頂にもう到達したと思うので、ころぶと驚くのです。
むしろ転ぶことを常に覚悟していらっしゃい。」


「ときとして、自分が思わず光るものを望んでいることに気がつきます。
そんなときには、謙遜に不完全な人々の中に自分を置いて、

自分は一瞬ごとに神様の助けを必要とする小さい者だということを思い出しましょう。」

「あやまちの思い出は、神への恐れよりも神の愛と慈しみについて私に語ります。
まったき信頼をもって、焼き尽くす神の愛の火にじぶんの過ちを投げ入れるなら、

どうしてすべてすっかり焼き尽くされないことがありましょうか。」

「もちろん倒れたり、不忠実なときもあるでしょう。でも、愛はすべてから利益を引き出すことを知っています。」

「イエス様のみ心にすがって眠る代わりに、くよくよして夜を過ごすなんて、なんてまあいけない子供でしょう!
 夜の闇が怖いとか、抱っこしてくれる方が見えないとかと嘆いているのなら、目をおつぶりなさい。
 夜の妄想と戦ってはいけません。この命令がきつすぎるでしょうか?いいえ、そんなことはないはずです。
 小さな子供は自分をすっかり任せて、イエス様が抱いていてくださると信じるで しょう。」


「私を天にまでのぼらせるエレベーター、それは、イエス様、あなたのみ腕なのです。
ですから、私は大きくなる必要はありません。かえって、小さいままでいなければなりません。」


「愛は、焼き尽くすいけにえとして、弱く不完全な私を選びました…。
この選びは、愛にふさ わしいのではないでしょうか…そうです、愛が完全に満足するには、低く下らなければなりません。
虚無にまで下って、この虚無を火に変化しなくてはならないのです…。」


「私は、なにもできない弱い子供に過ぎません。けれども、イエス様、あなたの愛に、いけにえとして自分を捧げる大胆さを私に与えるのは、この私の弱さなのです。」

「死を目の前にして、自分が不完全であり、神の慈しみをこんなにも必要としているのを実感するのは、なんと幸いなことでしょう!」

現代的聖人 ~幼子の信頼

 彼女はとことんまで自分を無力なものと見なし、そしてそれを神への信頼のもとに受け入れ、そんな自分を人々の救いのためにいけにえとして捧げ、愛で燃やし尽くしたいという望みを持っていました。
 その無力さとそれゆえの苦しみを受容する態度から、苦しむ人、病者の守護聖人とされ、現代では特にエイズ患者の守護聖人ともされます。
 また、早くに修道院に入り、神学ふくめ高等教育をうけていない彼女ですが、1997年には女性としては史上三人目の教会博士の称号が与えられています。
 高等教育を受けいない若い修道女に教会博士の称号が授与されるというのは、知識はもちろん大事ですが、神への単純な幼子の委託はそれを超える知恵であると教会が考えていることを示していると言えます。
 パウロの愛の賛歌は、決して現代でも色褪せてはいないのです。

 また、余談ですが、彼女には何通りかの呼び名があります。
 まず冠名(?)として「リジュー(修道院の地名)の」、「幼きイエスの(彼女の修道名)」、「小さき花の(自分のことを著作の中でこう呼んだことから)」があります。
 小さき花以上に、うぶげの小鳥ともよく自分のことをよく呼んでいたから、そっちでもいいんじゃないかと思うのですが、
産毛の小鳥の聖テレジア、というのはやっぱりなんか違う感じしますよね。
 そして三つの冠名に加え、テレーズというフランス語読み(彼女はフランス出身なので)と、テレジアというラテン語読みの場合の二通りがありますので、3×2で6通りの呼び名があることになります。
 ちなみにマザーテレサは生前、このテレーズから名前をとった(偉業のある大テレジア=アビラの聖テレジアのほうではなく)と語っていました。
 テレサは英語読みです。

今日も読んでくださってありがとう。

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