ヨハネ・パウロ二世の詩

まじめな教義・聖書の話

こんにちは。
 ヨハネ・パウロ二世は、聖職の道に入るまでは、地下演劇(当時のポーランドはナチス・ドイツの支配下にあったため)で俳優・脚本家として活動していました。
 そうした経緯は、後の教皇としての演説や振る舞いにも生かされていたのでしょう。
こういう言い方をすると、政治家としての彼の手腕が、まるで表面的なものであったかのような印象を与えてしまうかもしれませんが、決してそういうわけではありません。

 19世紀末のフランス社会心理学者ギュスターブ・ル・ボンは、大衆行動の扇動されやすさを説き、その危険性に警鐘を鳴らしました。
 当時としては、全く新しい考えであったその著書を愛読し、逆に利用したのがヒトラーであったというのは、皮肉なことです。
 しかし、そうした才能を全く違う方向に生かしたのが、ヨハネ・パウロ二世だったというと、言いすぎでしょうか。

 ともあれ、多くの教皇がそうであったのと同じように、ヨハネ・パウロ二世もまた、芸術の愛好者でもありました。
 彼は、私的な楽しみとして、詩を書きました。それは、時に、舞台を想定した脚本のようなふうでもありました。
 今回は、ローマ三部作と言われるその詩の、最初の部分をご紹介したいと思います。
これから壮大な物語が始まるような雰囲気です。

Ⅰ感嘆

森の木々が波となって
リズミカルな音を立て
せせらぎを流れ下る
リズムはあなたを啓示し
永遠のみ言葉を啓示する

つくられた
見えるものすべてはあなたを語り
作り主を指し示す
あなたは沈黙したまま
これは何たる驚き
すべては森の木々の波となって
銀色の滝に流れ下る
すべてはリズミカルに山からくだり小川に運ばれる
この流れはどこに行きつくのか

山の小川よ、せせらぎよ
私に何を告げる
どこであなたと会えるだろうか
私の歩みはあなたの道の上にありますか
      (今少し休ませてください)
      (あなたの入り口の前で立ち止まらせてください)
森の木々が
波となって流れ下るとき
流れは感嘆することはない
しかし人は驚く
世界が通るこの入り口は驚きの入り口
       (驚きはアダムと名付けられた)

ものがみな感嘆しない中で
アダムは一人感嘆する
ものは感嘆することができない
なぜならものは自分の道を歩き進むことでせいいっぱい
人はものと一緒に進んでも、ひとり感嘆している
感嘆することで流れから立ち上がって言う
「立ち止まれ。私の中に港がある。」
「立ち止まれ。私の中に永遠のみ言葉と出会う場がある。」
「立ち止まれ。この渡し場に意味がある。」「意味がある。」「意味がある。」

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