世界難民の日
毎年6月20日は「世界難民の日」とされています。
今年もこのコロナ禍ではありますが世界各地で啓蒙のイベントが行われたようです。
日本は難民の受け入れに関して特に厳しい国といわれています。
それには、わたしたち日本人が難民となる機会が歴史において実質なかったということで、難民という存在がぴんとこないという背景もあるのかもしれません。
難民とはどういった人々か。
それは定義によって変わりますが、実はわたしたちのよく知るご家族も、今で言う「難民」として過ごされていたことがあります。
それは、ユダヤ王ヘロデの迫害によって出先のベツレヘムから地元に戻ることができず、異国エジプトへ逃れたあの一家です。
ベツレヘムへの旅
そもそも彼らがベツレヘムへ旅をしたのは、人口調査の登録のためでした。
施政者側(皇帝アウグストゥスとのみ書かれていますが、これはかの有名なオクタヴィアヌスです)は、おおよその人口を把握することが目的で、住民たちにそれぞれが自己のルーツの属するとされる土地(本籍地のような感じですね)で登録をすることを命じました。
そのため、ヨセフは身ごもっていたマリアを連れて、旅に出たわけです。
彼らが住んでいたナザレからベツレヘムまでは直線距離で約115キロほど。道のりとしては140~50キロほどだったようです。
長旅といえば長旅なのですが、一日30キロ進むとしても片道 5 日の旅ですし、そしてまた特に早産だったというわけでもないようでしたので(「マリアは月が満ちて」と書いてあるので)、
もう旅先で生まれてしまうかもしれないということは予想できたように思われます。
それでもあえてそんな時期に出発したのは、人口調査の命令が住民たちの時間的な都合を考えない無慈悲なものだったということかもしれません。
しかしそれでも、少なくともベツレヘムからすぐに帰ってこれると思っての出発だったはずです。
それがまさか、エジプトまで行くことになるとは思ってもいなかったことでしょう。
エジプトへ
それなりの覚悟を決めて決行する亡命とか移民とかとは違い、命の危険のためにとりも合えず着の身着のままで逃れるのが難民というものかと思いますが、彼らの状態はまさにそのようなものでした。
コプトの伝承によると、彼らは3年間エジプトに滞在したとされます。
まとまった財産もなく、おそらくほんの2週間程度の旅路の予定だったのが年単位の逃避行となってしまったのです。
遠く離れた異国で、ヨセフ、マリア、イエスの三人はどのように生活なさったのでしょうか。
当時のエジプトといえば、かのクレオパトラが先出のオクタビアヌスをその美貌で?懐柔しようとするも成せず、長く続いたプトレマイオス朝が滅びローマの属州となったばかりの地でした。
ヨセフは大工としての技術があったかと思いますが、ことばも文化も違う異国の地(ローマの属州という点ではユダヤと同じですが)では、そう簡単に生計を立てることができたとは思えません。
それにもかかわらず、幼子を抱えた着の身着のままの彼らが生き延びて無事に帰ってこれたのは、やはり現地の人々の手助けがあったのでしょう。
名も知らぬエジプトの多くの人々がこの貧しい異国の一家を助けてくれたからこそ、キリストによる人類の救いは実現したとも言えるのではないでしょうか。
弱い立場で
キリストの生涯というのは、本当にひたすら弱い人の立場にありました。
生まれたところも普通の家ですらなく、洞窟のような馬小屋。
幼少期は異国での難民生活。
ナザレに帰ってからは父母とつつましく暮らし、長じては大工として働きました。
それは今で言うブルーカラーの仕事であり、ホワイトカラーの律法学者や偉い教師のような立場には生涯つきませんでした。
そして人生の最後は罪びと、死刑囚として一身に人間の罪を背負われました。
このことは、貧困や難民問題、そして労働、犯罪、死刑の問題に関し、自己責任論のみで対応をすることに警鐘を鳴らします。
単純な比較はできませんが、日本における難民認定の難しさは世界でも突出しているようで、耳の痛い話でもあります。
とはいえ、もちろん社会を律する法律を曲げることは許されませんし、人間社会が存続するかぎり刑法はじめすべての法律が不必要になる日も来ません。
その点で、あまり安易な理想論はかえって害になる可能性も含み、限定された能力のわたしたちは時に自信を失うかもしれません。
しかしながら同時にキリスト者は、そうしたものすべてをひっくり返しうる大きな存在があることを知っており、
その存在を信頼しているからこそ、自分の愚かさにもかかわらず、難民に対し、貧困に関し、犯罪に関し、
自己責任論を超えた愛のわざを実践する勇気を得ることができるのだと思います。
最後に、入管施設で今年三月に亡くなったスリランカ出身のウィシュマさんのご冥福をお祈り申し上げます。
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