徴税人はなぜ罪びととされるのか?

まじめな教義・聖書の話

罪びとの象徴たる徴税人

 新約聖書において、徴税人は税を徴税するため、人々に嫌われ、罪びととされています。が、なぜ税を徴収するからといって、嫌われたり、罪びとと言われなければならないのでしょうか。
 税金を納めるのがイヤだという感情は理解できるとしても、だからといって税を取り立てる職種の人が嫌われ、はては罪人とまでされるというのは、とんでもない八つ当たりのようにも思われますが…。 
 それについて興味深い話を聞きましたので、今回はそれについて書きたいと思います。

時代背景

 当時、ユダヤはローマ帝国に支配されていました。ローマはユダヤ人たちから税金を取りたかったのですが、それは簡単なことではありませんでした。
 というのは、ユダヤ属州は形式的にはローマの一部になったとはいえ、なおも言葉や習慣、宗教など文化の中枢が異なったからです。
 そこで、ローマ人たちはユダヤ人の中から協力者を得ることにしました。それが徴税人でした。
 徴税人たちは、ある地域の分の税金をローマにまとめて前納することで、ローマ帝国の威信を後ろ盾にその地域から自由に税金を取り立てる権限を与えられました。
 
そして、非常に多くの場合、彼らは自分が納めたよりもずっと多く税金を取り立てました。
 こんなにかんたんでぼろ儲けの商売はなく、徴税人たちはますます富み、民衆はますます苦しみました。
 これが、徴税人が時にローマ人以上に同胞たちから嫌われ、罪びととされた理由だったのです。

 私も、もし、例えば第二次大戦後に、日本がアメリカかソ連の一部になっていて、そのはざまで彼らの手先となり同胞から搾取して財をなす日本人がいたら…と想像してみると、徴税人を嫌う当時の人々の気持ちがわかる気がします。

徴税人たちのバックグラウンド

 さらに言えば、この徴税業務は、まずローマ帝国に前納するだけのまとまったお金を持っていなければできませんでした。また税に関する読み書き計算も必要でした。
 つまり、この職につく人々は、貧しさゆえに盗みを犯したり、教育がなくて世の中のルールを理解できないような他の罪びとたちとは性質が違いました。
 つまり、お金と教育がありながら反社会的な行動を選ぶ人々。
 おそらくは物質は与えられても愛は与えられず、孤独や不信に心をむしばまれ、罪悪感はとうに失われて人を傷つけても何も感じず、社会からは断罪され、それでもなおお金だけを信じるという深い闇の持ち主だったのでしょう。
 それは、まさにもっとも暗く悲しく、そして罪深い人間の象徴のような存在ではないでしょうか。

 キリストの話の中でも、徴税人は身勝手な悪い人の象徴として描かれることがあります。
「自分を愛してくれる人だけを愛したからといって何になろう、徴税人たちですらそうするではないか」(マタイ5‐46)などです。
 徴税人たちの行い自体は正当化できず、やはり軽蔑すべきものであったのでしょう。

徴税人とキリスト

 しかし一方で、矛盾するようですが、一人一人の人間としての徴税人たちは、キリストにとって特別の友でもありました。本当に強くキリストを求めたのは、社会で尊敬されている祭司や律法学者ではなく、しばしば罪びととして軽蔑される徴税人たちでした。
 罪びとの苦しみを神さまは知っておられるのでしょう。
 徴税人がキリストに向かって手を伸ばそうとするならば、キリストは彼らが古くからの親友のように両手を広げて受け入れられました。
 時には、正しい人を待たせておいて、罪びとと話すことすらありました。なんだか「善人すらかつこれを救う、いわんや悪人をや」のキリスト教バージョンみたいですね。

 私は、ニュースで犯罪者を見たときなど、こんなに悪い人が、と思ってしまうことがあります。「自分も悪いところはあるが、さすがにこういう悪い人とはレベルが違う」とも思ってしまいます。でもそんなとき、私こそがうぬぼれたファリサイ派なのかもしれません。
 思うに、程度こそ違え、誰もが徴税人でもあり、また徴税人を罪びとと定める側でもあるのではないでしょうか。日々の生活の中、かんたんなことではないけれど、それを常に忘れずにあれればと思っています。

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