カトリックでは、自殺すると地獄に行くとするが、本当か

まじめな教義・聖書の話

こんにちは。
この話題については、書こうか書くまいか、ずっと迷っていましたが、今回、書くことにしました。

自殺についてのカトリック教会の伝統と法典

なぜ?

 伝統的に、カトリック教会は、自殺を本質的に殺人と同じ、としてきました。殺すのが、自分の命であってもです。
 背後には、「私たちは、神が私たちにゆだねてくださった命の管理者であって、所有者ではない」(カテキズム2280)という思想があります。

 私の命は、私に神からゆだねられたものであって、私の所有物ではありません。他の人の命が神のものであるのと同じように、私の命は神のものです。
 所有者であれば、それをどうするのも自由かもしれませんが、ただ委託されているだけ、預かっているだけあるのだから、それを失わせる権利はない、とするのです。

 ただ、それは直接にキリストが言われたことではないし、またいわゆる7つの大罪にも入っていませんので、いわば少しサブ的と言いましょうか、歴史の中で紆余曲折を経ながら発展してきた教義ではあります。
 歴史的には、自殺が罪ではないかという思想が始まったのは、4世紀のアウグスティヌスの時代、それが罪であるとその評価が定まったのは7世紀以降、トマス・アクィナスの時代ごろではないかと言われています。

葬儀などは?

 さて、それでは、それでも自殺が起こってしまった場合、それについての教会の対応、たとえば葬儀についてなどは、どうなっているのでしょうか。

 かつてのヨーロッパなどにおいては、実際にそれを罪として葬儀の拒否をするなどということが行われていた時代もあったようです。
 ただ、現代においては、日本でも欧米でもどこでも、自殺を理由に葬儀の拒否をするということは、まずないと言っていいかと思います。
 私も実際に、自殺者の葬儀がカトリック教会で行われているのを複数見てきました。

 現代の教会法においては、「熟慮の上で自殺した者から、教会での被埋葬権を剝奪する」(教会法典;1917年発布)という規定があり、それによると教会での葬儀を認めないかのようにも思われます。
 が、この法典が、実はトリッキーなもので、表面上は葬儀拒否権を明らかにしたような体裁をとりつつも、実質は違う意図のあるものです。

 これは、実は、「葬儀拒否を認める」ことが目的というのではなく、「葬儀の拒否をしてよい場合を、極めて狭く限定する」ことによって、自殺が罪であるという教義は変えることなく、むしろ葬儀を合法的に行えることを明文化したものと言えます。

 この条文の解釈においては、「熟慮の上で」という文言があるのがポイントなんですが、多くの場合、自殺した人の生前の言動を思い起こすと、普通ではないような追い詰められた精神状態になっているものです。
 そのことから、ほとんどの自殺に関しては、「通常のように熟慮する能力が、病(うつ病も含む)や社会的困窮など、何らかの要因によって失われていた」とされ、この条文の規定から外れることになり(「熟慮の上で」は「自殺した」にかかるのであって、「剥奪する」にかかるのではない。)、結果、教会での被埋葬権は剥奪されないことになります。

 そして、さらには、たとえその人の生前の言動や状況がわからなかったとしても、「自殺をしたというそのこと自体」を「何らかの熟慮ができない状態だった証拠」と考えても良いとすらされるそうです。
(50年前の欧米の神学校でそのように習ったと、お年の欧米出身の神父様から聞いたことがあります。)
 このように考えた場合には、この条文は実質的には絵に描いた餅、実際の効力はないとも言えるのではないかと思いますので、さすがに公式な文書などで見たことはありませんが…。

 ですから、総じて、現代のカトリック教会において、自殺によって葬儀が拒否されるということはまずないと考えていいと思いますし、またそれを罪だと定めるのも、実質ないと言って良いのではないかと思います。

では、なぜそのような教義を保持するか

 では、実際の運用は大きく異なりながら、なぜ自殺を罪とし、表面的には自殺者の葬儀はしないとも取れるような条文を、カトリック教会は保持するのでしょうか。
 それについて、私は明確な答えをいただいたことはありませんので、私の想像でしか書けないのですが、まず第一には、やはり「私たちは、私たちの命の管理者であって所有者ではない」という教義は重要で保持する必要があるため、その論理的帰結として自殺を正当化はできないということがあるかと思います。

 そして、第二に、脅かすことで自殺を思いとどまらせることができるのならばそれも良し、という、現実的な理由もあるのではないかと思います。
 私は、実際に、精神科医の方から、「カトリックの方が、地獄に行くのが怖いからということで自殺を思いとどまるケースはある」と聞いたことがあります。
 その先生は、「本当に自殺で地獄に行くかどうかはわからないけれど、それで自殺を防げるのならば、それも良いと思う」というようなことをおっしゃっていました。

 私も、そう思います。
 神様が、自殺を選ぶ人の苦しみをわからない方だとは思えません。ですから、自殺をしたからといって、それが罪だとか地獄に行くだとかと断罪し、葬儀も行わないというのは、真には、憐れみの神様の意に沿わないものではないかと思います。
 が、同時に、そう言うことによって、自殺を思いとどまらせることができるのであれば、やはりそれに意味はあると思います。
 その折衷案として、カトリック教会は、伝統的な教義を保持し、20世紀になって新たに発布された法典においても、表面上は葬儀拒否権を明文化したかのような態度をとりつつ、解釈によってその幅を広め、実質の運用は異ならせることができる、というようにしたのではないかと思います。

 今回、私はこの記事を書くことについて、悩みました。
 この話題は、カテキズムの中でも、しばしば誤解されるものですから、もっと早くから取り上げたいという思いもあったのですが、同時に、これを読んだ方が、地獄への恐れというつっかえ棒がなくなり、自殺を選んでしまうかもしれないという恐れもありました。
 しかし、近年は、安楽死の議論なども出ており、ますます避けては通れない論点になったように思い、書くことにしました。

最後に

 自殺を遂げてしまった方とその遺族に対しては、「断罪」から「慰め」へ。
 そして、これから起こるかもしれない自殺に対しては、「禁止」から「予防」へ。
これは、あるプロテスタントの研究者の方々が出された自殺にかかわる論文集のサブタイトルです。
 教会が向かう方向は、これに尽きるのではないかと思います。

 この拙稿を読まれて、ああ、自殺しても地獄に行くわけでも、葬儀をしてもらえないわけでもないのか、では自殺へ向かおう、と思われた方がいらっしゃったら、その前の「私は私の命の管理者であって、所有者ではない」という教義を思い出してください。
 神様は、その辛い追い詰められた気持ちをわからない方ではありませんから、自殺をしても、受け入れてくださると思います。
 でも、できることならば、寿命が尽きるまで、生きてみてください。誰かに話したければ、私で良ければ聞きますから、このブログのお問い合わせフォームに載せているメールアドレスにご連絡ください。

今日も読んでくださって、どうもありがとうございました。

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