こんにちは。
今日は、聖ベルナデッタについてお話ししたいと思います。
マリア様の御出現と、奇跡で知られるルルドの泉にかかわった少女です。
マリア様が姿を現す相手として選ばれた彼女は、貧しくて無知な小さき者、しかも人から馬鹿にされるような、本当に「小さき者」でした。
「小さき者」というと、小さき花の聖テレーズ(参照;小さき花の聖テレジア (1)~か弱い小鳥が鷲の野望を持ち)もそうですが、テレーズは勉強という点では優秀でした。
テレーズは、繊細すぎて学校に通うことができなくなり(今で言う不登校みたいですね)、個人教授で教育を受けたのですが、成績自体はとても優秀で、短い学校時代にイジメられた原因の一つは彼女の成績もあったのではないかと言われています。
それは、彼女の書き残した深い洞察に満ちた文章からもわかります。
しかし、ベルナデッタは、また違うタイプでした。
彼女は、経済的には裕福だったテレーズと全然違い、あまりに貧しく、幼年期には教育も満足に受けられませんでしたし、また後に字などを習っても、あまり使いこなすことはできませんでした。
彼女の残した手記などを見ると、どの部分が他人の書いたものを写したのか、どの部分が彼女自身が考えて書いたものなのか、の違いが一目でわかるほどに、彼女の書いた文章は誤字や文法的誤りだらけだそうです。
そのような彼女は、水車小屋の娘であり、また時に羊飼いでもありました。
これから、彼女の軌跡を見てみたいと思います。
水車小屋と「カショー」(牢獄跡)での生活
1844年、南仏の貧しい水車小屋の両親のもとに、ベルナデッタ・スビルーは生まれました。
両親は、とても善良でした。が、善良すぎて、ずる賢い人々もいるこの世を生き抜くことが、少し難しいタイプの人々であったようです。
ベルナデッタの両親は、水力を利用して粉を引くことで生計を立てていたのですが、相手が代金を支払えない場合、それを快く受け入れて、値引きしてやったり、支払いを伸ばしてやったりしていたと言います。
そういうことを相手の性質を見極めることなく繰り返した結果、この水車小屋には、代金をあえて払わないような質の悪い者が集まってくるようになりました。
信心深く、「鳩の素直さ」を持っていても、「蛇の聡さ」は持っていなかったらしいスビルー家は、貧しい中でもこのような者たちの食い物にされるような、そういう一家でした。
また、字が読めなかった父親は、仕事で騙されることもありました。
が、それでも一家は、施しを求める人々を手ぶらで帰すことはありませんでしたし、また後に、ベルナデッタが有名になり、その貧しさに心を痛めた人々が、彼らにお金を渡そうとしても、決して受け取ることもありませんでした。(ベルナデッタは、あまりにしつこく渡される施しのお金を、怒って投げ返したことすらあったそうです。何も投げなくてもという気もしますが…。)
そして、あまりの貧しさから、一家は「人間が住むところではない」と言われたカショー(牢獄跡の建物)に移り住みました。
そこは、寒いうえ湿気が強く、元々病弱であったベルナデッタやその他の子供たちには、大変に過酷な環境でした。(のちに医者から「子供たちを殺したくなければ、どうにかここから出なさい」とまで言われ、両親は、再度の引っ越しを決意したそうです。)
安い住処を求め、何度も引っ越した一家ですが、このカショーが最悪だったようです。この時、父親は失業し、さらに泥棒の嫌疑をかけられ、疎外され…という一家にとって最悪の試練の時期でした。
また、この時期、子供たちを養うことができなかったことから、一時期ベルナデッタは、里子に出され(日本で言う奉公みたいなものですね)、羊飼いとして働きます。
羊飼いは重労働で、体の弱い幼い少女には過酷な仕事だったことでしょう。
また、里子に出された間、彼女は、勉強もさせてもらえず、読み書きもできないままでしたし、標準フランス語はしゃべれないままでした。(当時彼女が使っていたのは、標準フランス語よりもむしろラテン語に近く、文法も異なるビゴール方言でした。)
でも、このことが、後の聖母出現にあたり、興味深い事柄に繋がってくるのですが…。
聖母の出現
1858年2月(ベルナデッタは14歳)、最初の聖母の出現に遭遇します。薪を拾うために、妹と隣人の少女と一緒に、カショーを出て、森へ向かったときのことでした。
それから、7月まで、18回にわたり、聖母マリアはベルナデッタに姿を現されました。
最初は、ベルナデッタもこの女性が誰なのかわかりませんでした。その話を聞いた人々も、それが誰なのかわかりませんでしたし、そもそもそのような女性が現れたというのも、信じがたい話でした。
多くの人々は、夢見がちな年ごろの少女の作り話と考えたようです。「亡くなった〇〇の霊かも…」と言う人もいたようで、カオスぶりがうかがえます。
でも、その亡くなった誰かの霊かと考えたご婦人が、ベルナデッタと一緒に出現を見に行き、「これは違う、むしろ、この方は聖母マリアではないか」と感じたということで、新たな大人の証言者が出たとして、噂は一層広まりました。
聖母出現の洞窟が有名になるにつれ、治安上の理由で騒ぎを大きくしたくなかった当地の警察署長が、ベルナデッタを尋問し…、
その尋問に同席した税務署長が、彼女とともに何度目かの聖母出現を見に行ったところ、そこに何か圧倒的で神聖なものを感じ取り、全く態度を変化させた、という一幕もあり…、
こうして、ますます騒ぎは大きくなり、最終的には出現の洞窟には何百~何千人もの人が集まり、バチカンとの関係に悩む政府も、その動向を注視する事態となりました。
今日ルルドの泉として知られる湧水を、ベルナデッタが聖母から教えてもらったのは、9回目の出現のときです。
また、13回目の出現のときには、ベルナデッタは、その不思議な女性から、「ここに聖堂を建ててほしい、そして人々に参列をしてほしい」という願いを託されます。
それを、ベルナデッタは教区の司祭に伝えますが、教区司祭は「誰かわからない者の願いを聞くわけにはいかないから、次のときには、その人の名前を聞くように」とベルナデッタに指示しました。
そして、14回目の出現の時、ベルナデッタは、その方に名前を聞きます。
すると、その女性は、ベルナデッタの話すビゴール方言で、「私は無原罪の御宿りです」と答えられました。
「無原罪の御宿り」とは、聖母マリアが原罪なくして宿ったという、現在では有名なカトリック教会の教義で、今では聖母マリアの別名の一つでもあるのですが、それが正式にローマ教皇によって宣言されたのは、1854年12月、この時よりわずか3年前のことでした。(教皇ピウス9世による回勅 Ineffabilis Deus)
回勅どころか、普通の文章も読み書きできなかったベルナデッタは、当然この言葉の意味が分からなかったので、忘れないように、ひたすらこの言葉を繰り返しながら帰路を急ぎました。
そして、教区司祭のところに着くや否や、「私は無原罪の御宿り!!」と叫び、その唐突な言葉に、教区司祭は、「なんて図々しい!(ベルナデッタが自分のことをそう言ったかと思った)」と驚愕…、、という何とも苦笑いな伝え方になってしまいました。
(ベルナデッタは、そういうところがありました。)
しかし、ここで、既に回勅を読んでいた教区司祭は、これはベルナデッタが自分では知ることのできないことだ、と気づきます。
ベルナデッタは、そうした高尚な教義とは、ほど遠い場所で生活してきました。また、もし仮に、ベルナデッタが、その新しい教義をどこかで耳にしていたとしても、そういう教義がベルナデッタの理解しない標準フランス語でなく、この方言で話されることはあり得ないことでした。
さらに、この時の言葉は、ビゴール方言でありながら、深い哲学の素養がないと言えないような言い回しで…、そうしたことから、それまで半信半疑だった教区司祭も、ベルナデッタの言葉を信じるようになりました。
聖母出現の後のベルナデッタ
こうして、一連の聖母の出現の後、ベルナデッタは、一躍有名人となり、多くの人が聖なる少女と呼び、彼女を一目見に訪れるようになりました。
疎外されていた一家の少女が、急に「聖人」となり、「汚い貧しい服を着た、変わった少女」が「なんて質素で美しいのでしょう」などと言われるようになりました。
また、そのあまりの貧しさに、施しをしようとする人々も多く現れましたが、彼女も彼女の両親も、それを決して受け取りませんでした。
そして、そのことは、結果として彼女たちを守りました。「金目当てで、このようなことを起こしたのではないか」と疑う向きもあったからです。
また、多くのインタビューも行われましたが、標準フランス語を理解しないベルナデッタにとっては、一苦労でした。
彼女の言語は、方言とは言え、時に、標準フランス語とは通訳を介さねばわからないほどの違いがあり、しかも教育を受けていないベルナデッタには、質問に正しく答えることは難しく、強い劣等感を感じていました。
そうしたことから、パリ外国宣教会のテオド-ル・オギュスタン・フォルカード神父(宣教のため、幕末の日本にいたこともあった人らしいです)は、日々訪問者たちの好奇の目にさらされているベルナデッタを、安全なところにかくまうことはできまいかと、思案するようになりました。
そして、神父の計らいで、ベルナデッタは、ヌヴェール愛徳修道会のルルドの養育院に入ることが決まりました。
一応修道院内ではありましたが、彼女は修道女になるためというわけではなく、「寄宿生」として、養育院に入ったのです。あくまでも、好奇の目にさらされている貧しい少女ベルナデッタを保護することが当初の目的でしたから。
この愛徳修道会は、貧しい家庭の女の子に初等教育と施すことと、病人や貧しい高齢者たちの世話をすることを使命としていたので、この養育院は、ベルナデッタにぴったりでした。
この養育院で、ベルナデッタは14歳から8年間過ごすことになります。
この間のベルナデッタのエピソードは、なかなか面白いものがあります。
あるとき、修道院長は、裁縫の苦手なベルナデッタが、こっそり洋服の袖の部分を膨らませようと頑張っているのを見つけたそうです。
当時、若い娘たちの間ではパフスリーブが流行っていて、ベルナデッタはどうにかそれに近づけたかったというわけ。
院長は、「なんて俗的な娘でしょう」と内心呆れたとか。
また、ある時は、ベルナデッタが、他の少女たちに「”謙遜”の遊びをしましょう。謙遜な人は、この輪の中に手を入れて!」と言って、自らその輪の中に手を入れたのを上長のシスターが見て、
「まさに傲慢を見た」と思ったとのこと。
なんというか、シスターの感想が容赦ないです。
その他にも、規則ではおでこを全部出さないといけないのに、前髪を作ろうとして怒られたとか、ここで縄跳びはしないんですかと聞いてあきれられたとか、なんとも言えないエピソードのあるベルナデッタですが、そのうち自分もシスターとして生きることを決意するようになります。
もっとも、当初は、修道院にシスターになるために入会するには、持参金がいるため、貧しい自分には無理だと思っていたそうです。
先の神父は、「持参金なしでも入れることはある」と説明しましたが、ベルナデッタは、
「それは、賢かったり、何か技術のあるお嬢さん方の話でしょう。私には、何もありません」と答えました。
ですが、神父は便宜を図り、入会を斡旋してくれました。
こうして、14歳で養育院に入ったベルナデッタは、22歳でルルド養育院を出て、新たに、ヌヴェール修道会の本部修道院へ、今度は修道女の志願生として、入ることになりました。
そして、養成期間を経て誓願を立て、修道女となりました。修道名は、マリー・ベルナール。
その後も、元来の病弱さから、喘息、脊椎カリエス、結核といった多くの病気に苦しみながらも、看護助手や香部屋係などとして働き、35歳の短い生を終えました。
名声のためにあのようなことをしたのではないか、という声もまた、世間から隠れた修道院内の8年間の寄宿生生活とその後の13年間の修道女生活によって、かき消されました。
修道院内でも、22歳で最初に修道院に到着した時に、全員の前で体験を一度話したきり、それについて話すことはありませんでした。
また、聖母マリアから教えてもらったという祈りがあったようなのですが、それについては、秘密だからと生涯誰にも言うことはありませんでした。
最後に、ベルナデッタの残した言葉を紹介します。
「マリア様が、私に現れたのは、私が最も貧しく、もっとも無知で、もっとも小さい者だったからです。
私がそれを知らないと思っているのですか?」
コメント
楽しく読ませていただきました。
一つだけ訂正させてください。
美しい「あれ」がお答えになった名前は正式なフランス語です。ベルナデッタは方言しか話せなかったので、忘れないように何度も口ずさみながら司祭の元に行き伝えました。でも本人は何の言葉なのか全く理解していなかったようです。後に他の人に教えてもらって、聖母なのだと確信したようです。
細かい点ですが、これはとても重要な事だと思います。
コメントどうもありがとうございます。
私が読んだ本を何冊か確認しましたが、あれ(マリア様)は、ベルナデッタに、「私は無原罪の御宿り」との言葉を、彼女の使うルルド方言で伝えたと書いてありました。
それでも、彼女は覚えられなかったので、ずっとそれを繰り返しつつ帰り、司祭にそれを伝えた…、と。
また、インターネットでも、Wikipediaはじめ、多くのページで、ルルド方言だったとと書いてあります。
実際のところがどうだったかはわかりませんが…。。
ただ、もしそれが標準フランス語であったなら、ベルナデッタが、他のどこかでそれを偶然耳にした可能性が出てきてしまったかもしれません。
しかし、3年前に認められたばかりの新しい教義が、ルルド地方のビゴール方言で話されるということは、より有り得なかったことなので、これによって、このエピソードの不思議さが際立つような感じもしますが、どうでしょうか。