老人シメオン

まじめな教義・聖書の話

老いるということ

 老いとは、当たり前ですが、若死にしない限り避けて通れないものです。
 言い換えれば、若くして死なずここまで生きてこれたことの結果ですから、幸せの一つといえます。
 しかしながら、かつてできていたことが少しずつできなくなる、知っていた人々が少しずつ少なくなる、といった事実に直面するとき、ほんの少し寂しくなることもあるかもしれません。
 どうすればこの寂しさを手放すことができるのでしょうか。わたしにはわかりません。
 ですが、世には多くの先達がおられます。
彼らがどのように老いの日々を生きたかを知ることは、わたしたちにとって何らかのヒントになるかもしれません。

 ルカ福音書にもそのような人物が登場します。二千年前のキリスト誕生のころにエルサレムにいたシメオンと呼ばれる老人です。

シメオンの喜び

以下はルカ福音書からです。

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。
この人は正しい人で信心深く、イスラエルが救われるのを待ち望んでいた。
また、聖霊が彼の上にあり、主が遣わすメシアを見ないうちはけっして死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
彼が聖霊に導かれて神殿に来ると、みどりごイエスを連れた両親が、この子のために律法のしきたりを行おうとして、入ってきた。
シメオンはこの子を抱き、神をたたえて言った。
「主よ、今こそ、あなたはおことばどおり、
しもべを安らかに去らせてくださいます。
わたくしはこの目で、あなたの救いを見たからです。…」

………
(ルカ2.25‐35)


 彼は、世の救い主を待ち望んでいました。
そして、「主が遣わすメシア(救い主)を見ないうちは決して死なない」というお告げを聖霊から受けていました。
 このようなお告げを受けたとき、わたしたちはどのように思うものでしょうか。
「では、わたしは絶対にメシアを見ることができるのですね、ありがとうございます!」
とうれしい気持ちになるかもしれません。
 しかし、逆に言えば、
メシアを見るまでは神から死なないという保証をもらっていますが、メシアを見たらその保証がなくなるわけです。
ですから、
「では、メシアを見たら、そのあとわたしは死んでしまうということか…」
というふうに、お告げを自分の死期の予告ととり、悲しい気持ちにもなるかもしれません。

 どちらも自然な気持ちですが、この喜びと悲しみの差はどこから来るのでしょう。
 もちろん死にたくないと思うのは誰しも当然のことです。
 ですから、もし自分の死期を先延ばしにしたかったら、いつまでもメシアと会わないようにすればいいということだったのかもしれません。
 さらには、会わないようにと思っても、どこかで意図せずメシアに会ってしまうかもしれませんから、家に閉じこもって誰にも会わないようにしたら、もっと安全かもしれません。
 しかし、そのように、自分の生のためだけに生きる生とは何なのでしょうか。それは満足を感じられるものでしょうか。

 少なくともシメオンは、自分の最後の日々をそのように過ごしませんでした。

希望と信仰

ことばを超えた希望

 思うに、死を恐れることはわたしたちの本能的なものであるとしても、同時に、ただ死なないことを避けるだけの生もまた空しいものです。
 おそらく、わたしたちの生には、希望が要ります。希望がない生ならば、生きていても死んだと同じです。若い人が死を選ぶときとは、先にたくさんの時間がのこされていても希望がないときでしょう。
 小さな希望から大きな希望まで、希望には様々なものがあります。
おいしいものを食べたいとか、旅行に行きたいとかの小さな希望でも、わたしたちの生活に彩りを与えてくれます。
 そして、すべての希望のなかでももっとも大きな希望は、絶対的な存在への信頼です。
 それを「永遠のいのち」と教会は伝統的に呼んできましたが、それを文字通りに取るとそれはそれで混乱するかもしれません。
 というのも、死が怖いのは当然ですが、永遠に生き続けるというのも想像したらまた怖いものだからです。
 わたしたちが望んでいるのはそんなものではありません。が、「それ」を的確に表すことばをわたしたちは持たないので、こうした表現に頼らざるを得ないのです。
 「永遠のいのち」、それは、わたしたちの持つことばや理解を超えたなにかであり、
究極の生であり幸せであり、死を超える希望です。

 シメオンが持っていたものは、そういう希望です。そして、メシアはその待ち望んでいたしるしでした。

しるしと信仰

 それまで抽象的な仕方で心に持っていた信念が、実際にしるしという目に見える形になったのを見る、それは信じる人シメオンにとっても本当に特別な体験だっただろうと思います。
 シメオンは、信じる人であり(もちろん仮に見なくても信じる人であり続けた人だったでしょうが)、その圧倒的なしるしを見ることができました。
 言い換えれば、死を超えるもののしるしを、死ぬ前に見ることができたのです。
 そして、神の救いをもたらすことになるその幼子を実際に自分の腕に抱き、それを自分と人々のために喜びました。
 死期の予告ともなりうるそのお告げをまったく正反対のものにしたのは、シメオンの持つ神への信頼であり、希望でした。

 シメオンがどんな仕事をしていたのか、今どのような立場にいるのか、お金はあったのか、独り者だったのか、妻や子どもに囲まれていたのか、何もわかりません。
 福音書に書いていないということは、このお告げの大転回にはまったく重要な要素ではなかったのでしょう。
 彼についてわかることは、ただ信仰を持っていたこと、自分を守って閉じこもるのではなくエルサレムの神殿に出かけたこと、そして幼子イエスを抱いて人々の救いを喜んだこと…、それだけです。
 そして現代に生きるわたしたちも、そんな彼の行動から学ぶことがあるように思われます。
 わたしの最後の日々、彼のようにしるしを見ることができずとも、どうか私が信仰を失いませんように。
 また、願わくばその信仰が、自分の中に閉じこもったものでありませんように――。 
高齢者の大先輩シメオンさん、神さまにどうかよろしくお伝えください…と抱神者シメオンに厚かましくも取次ぎをお願いして、この稿を終わります。

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