第二戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」

まじめな教義・聖書の話

 これは、カトリックの十戒の第二戒です。(多くのプロテスタントなどでは、第三戒にあたります。)
今回は、これについて見てみたいと思います。

「みだりに」の意味

 これは、単にしょっちゅう唱える、という意味ではなく、その頻度よりも、その心の問題ととられるようです。
 要するに、本当に神様助けてとかありがとうとかの気持ちで、しょっちゅう「神様」と呼びかけるのことを禁じているのではなく、軽薄な心をもって神の名を口に出すな、という意味かと思います。

 例えば、、英語での「オーマイゴッド!」「ジーザス!」「ジーザスクライスト!」などのスラングなどはいい例です。
 これは、通常「なんてこった!」「くそったれ!」のような意味だということです。
 もちろん単語そのものの意味としては、「ああ私の神」であり「イエスキリスト」であるので、場合によっては本当に神様へ呼びかける気持ちで使われることも、あるかもしれませんが、それにしても、こういう言い回しがもうガラ悪めのスラングだということが定着してしまっているので、本当に神を求める単独の呼びかけの言葉として使う場合には、むしろ少し違う表現をしたりすることが多いという本末転倒さです。
  
 日本語でも、何か計画などが台無しになった場合などに、「おシャカになった」などという言い方をしますから、どうしようもない時に神聖な言葉を茶化して使いたくなるというのは、人類に共通したものなのかもしれません。
 第二戒ではそれを禁じているのかなと思います。

 ただ、だからといって、それがそんなに悪いことなのか、という気もします。 
なぜ、それが十戒の一つになるほど重大なのでしょうか。

名前と実体

 「バラをバラと呼ばずとも、その甘い香りに変わりはない。」
これは、ジュリエットが恋しいロミオを想って言った言葉です。
 バラをバラと呼ばずとも、バラがバラであることに変わりはない。同じように、ロミオの名前がロミオでなくなっても、愛しいあなたであることに変わりはない。
 だから、その名前(ここでは家柄ですね)を捨ててほしい…というわけです。

確かに、これはその通りだと思います。
大事なのは名よりも本体。
そういう点では、何をどう呼ぼうが、問題はないように思われます。

 また、同じような例なのですが、トイレというあの場所を示す名前が、どんどん変わってきているという話を聞いたことがあります。
 これは、日本語以上に英語で顕著らしいですが、やっぱりあの用を足す場所というのは、あまりキレイなイメージではないということなんですね。
 だから、それを隠すために、耳障りのいい名前を付けるのですが、どんなキレイな名前で呼んでも、しばらくするとその言葉にどうしてもニオイなどのイメージがついてしまって、その名前自体がキレイではなくなってしまう。
 それで、また新しい名前を付けるも、時間がたつと同じことの繰り返し、ということなんだそうです。
 トイレット、レストルーム、バスルーム、ウォッシュルーム、パウダールーム、、、という具合で、日本語でも、厠、便所、トイレ、、など、そういえば耳障り良く変換してきているかな、という感じがあります。

 つまり、これは、実際に私たちが触れることのできる人やモノだと、その実物のイメージのほうが大きいので、名前がそれに引っ張られるということだと思います。
 もし、バラをもっと汚い名前で呼ぶことにしたとしても、その美しさや甘い匂いから、いずれその名前がその花にふさわしい美しい名前に思えてくるのだろうと思いますし、トイレをどんなに美しい名前で呼んでも、時間が立てば、その名前にトイレのにおいが移ってくるものだろうと思います。

 しかし、これが、普段触れることのできない存在だと、どうでしょうか。
 引っ張る実物に、実際に触れられないとなると、名前そのものや、その名前を使うときの私たちの心情などが、逆にその存在のイメージを引っ張ることもあるのではないでしょうか。

 例えば、私は、核兵器を核兵器などというある意味フラットな名前で呼ばずに、「人類滅亡兵器」という名前で呼ぶべきではないか、とする政治心理学の専門論文を読んだことがあります。(外国の著者でした。)
 明らかに、著者は反核の思想を持っていたのでしょう。
 正直、私は、表面上の名前を変えることにどんな意味があるのかという反論が一般的ではないかと思いました。
 が、よく考えてみますと、私たちは核兵器というものを普通実際に体験することができませんから、その重さがイメージ的にピンと来ないまま、核兵器へ賛成の票を投じるというのもありうるわけで、それは確かに好ましくない。
 だから、私たちの中で抱くそのイメージを少しでも実物に近づけるために名前を変えるという意図においては、この論文の主張するところも理解できる、と思いました。

 まあ、これはちょっと極端かもしれませんが、とにかく、言葉と実体には私たちの中で双方向的な関連があり、特に実態を触れない時には、言葉自体が実体のイメージを引っ張るということではないかと思います。

内村鑑三の言葉

 さて、名前と実物に関連があり、その名前が実物のイメージを引っ張るということもありうる、となると、ある言葉(名前)を私たちがどういう気持ちで発するかということによっても、実物のイメージが影響を受けるということがあるのではないかと思います。

 ここで、内村鑑三の言葉を見てみたいと思います。
 キリスト者である内村鑑三は、「(みだりに神の名を口にすると)、神の名がまず意義を失い、ついには、神ご自身が彼の心中より消え去り給う。これすなわちてきめんの刑罰である」と述べています。
 これは、私たちの心の中でおきることです。

 神の名を、ふざけた気持ちで簡単に呼んでいると、そのうち私たちの心の中でそのイメージに引っ張られてしまう。別に、大した悪気がなくても、ただ何となくふざけて呼んでいただけでも、です。
 神聖なイメージであった神の名が、その神聖さを失い、いずれ、私たちが、見えない、触れない神を心で信仰するということの妨げになってしまう。
 結果として信仰が徐々に失われ、心の中から神が消えてしまう…、こうしたことを防ぐための第二戒なのではないかと思います。

 そもそも、誰かの名前を冗談で使うというの自体、まあ失礼ですしね。でも、この場合は、神に失礼ということ以上に、私たちの心の中で、私たちが神へ向かうことの妨げになってしまうことを危惧しているわけです。
今日も読んでくださって、どうもありがとうございました。

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