第四週;一致の道≪復活の観想≫(11)教会と思いを一つにする規則

イグナチオの霊操

「教会と思いを一つにする基本的原則」

「教会のすべての掟をたたえて尊び、常に正しい理由を探し求めて教会を擁護し、決して攻撃しない。」
(霊操361)

「自分には白と見えることでも、教会制度に基づく教会が黒と決定したならば、花むこ、主キリストとその花嫁である教会である教会との間には、私たちを支配し、魂の救いへと導く同じ聖霊がおられることを信じる。」
(霊操365)

自由からの逃走?

 ユダヤ系ドイツ人であった社会心理学者エーリッヒ・フロムは、ファシズムの熱狂にあって人々が自分で考えることを放棄する様を、「自由からの逃走」と表現しました。
 イグナチオの言う教会への服従は、一見フロムの言う自由からの逃走と似ていますが、それによって被害を甘受するのは誰かという点において、本質的に異なります。
 フロムの言う自由からの逃走の場合、その思考・意見の放棄によって被害を受けるのは、自分でない誰か他の人たちです。
 しかし、イグナチオの言う場合は、第一に自分です。
 自分がこうだと思ったことであっても、教会がそうでないと言うのならば、それに従う。教会からの自分へのいわれなき罰も、時に破門も、すべて甘んじて受け、常に教会の正しさを探し求める。
 長い歴史において、カトリック教会が腐敗した時、立て直しが必要な時、多くの改革者が出ましたが、彼らに共通した態度がこれでした。もちろん、イグナチオもまたその一人です。

カトリック教会の改革者たち

 考えてみれば当然なのですが、教会が腐敗した時にそれを正す人が出ても、それを教会がはい、そうですねと受け入れるわけがありません。そう考える力がなくなっているからこその腐敗ですから。
 ですから、現代で「教会の改革者」とよばれる聖人たちの多くは、実は驚くべきことにその当の教会から迫害された経験を持っています。
 12世紀のアシジの聖フランシスコも、16世紀の十字架の聖ヨハネも、そしてこのロヨラの聖イグナチオも、現代ではカトリック教会の偉大な改革者とされる人々ですが、みな最初はむしろその教会から危険人物とみなされ迫害されました。
 しかし彼らは、キリストに倣い、迫害されてもそれを甘んじて受け、ただひたすら服従しつつ行動することで、その姿を実際に見た人々の間にその輪が自然に広がっていき、それらが結果として教会の改革につながった、そういう形での改革を実現した人々です。
 実現したという言い方も正しくないかもしれません、彼らにはそのような大それた望みはなかったでしょうから。
 マザーテレサですら、当初は教会から警戒された時期がありましたが(自分が改革者となろうというおごった考えの持ち主かと)、声高な主張ではなくその実際の行動と謙遜さでもって、教会を納得させています。

 ですから、霊操のこの部分は、自身が教会から迫害されても、また自分が白と思うことを黒と言われても、キリストの花嫁である教会がそう言うのであれば、そこには自分の意図を超えた神の計画があるのであろうから、それを信じる、そういうイグナチオの決意の表れです。

プロテスタントとの垣根?

 ところで、この霊操においてカトリック教会の改革者イグナチオのいう原則は、同時期に生きたもう一人の教会改革者ルターの主張とは正反対です。
 マルチン・ルターは、言わずと知れた宗教改革者でプロテスタントの創始者ですが、彼のやり方はイグナチオと全く違いました。彼は教会に立ち向かい、結果として新たな宗派をつくりました。
 当時のカトリック教会に問題があったことは事実ですから、どちらがいいかということはできません。現在ではカトリックの側も、あのような形で分裂を招いたことに責任があったと認めています。
 が、今でももしロテスタントとカトリックの間にしこりがあるとすれば、それは当時のルターの主張そのものというより、やり方のほうかとは言えるようです。

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