アダムとエバ in 失楽園 by ミルトン

まじめな教義・聖書の話

失楽園

 「失楽園」という文学作品は、少なくとも二つ有名なものがありますね。
ひとつは、私の知る限りでは、17世紀イギリスの詩人ミルトンによる抒情詩的なもの、もうひとつは現代日本の作家・渡辺淳一による小説です。
 性質は違うも両方が独特の美しさを持ったものかとは思うのですが、今回ここで取り上げるのは、ミルトンのもののほうです。
 もっとも、取り上げるといってもそれは壮大なキリスト教抒情詩ですので、その中の本の一部の一部のみを筆者の独断と偏見でもってちょっと触ってみるのみであり、また、これを宗教ブログで取り上げるにあたり教義そのものではないことにも留意する必要もあります。
 ですが、優れた文学作品ゆえ、神の愛の「小さいバージョン」的なもの(人間バージョン)が本当に美しく描かれているので、少しだけその味わいについて綴りたいといます。
 以下、失楽園から抜粋です。
 美しいのみならず、実は物語としても面白いです(たまにウケます)。

アダムとエバの初対面時、エバ逃げた!

エバ
「眠りから初めて醒めてみると、木陰の花の上にわたしは身を横たえていました。
自分がどこにいるのか、自分が何ものなのか、
どこからどうやってつれてこられたのか不思議に思いました。
澄みきった湖の面をのぞきこむと、その真向かいの輝く水面の奥にある人影が現れ、
わたしを見上げようと身をかがめていました。
わたしは驚いて後ろに下がりました。
その人影も驚いて後ろへ下がりました。
なんだか嬉しくなり、また元のところに戻りますと、相手もさも嬉しげにさっと戻り、
その顔に、わたしに答えようとするように愛の気持ちを漂わせていました。」

神の声
「わが愛する美しいものよ、お前が湖面で見ているのは、おまえ自身なのだ。
わたしについてくるがよい。
お前の来るのを、お前のやわらかい抱擁を、待っている、影ならざるものの所へ連れて行ってやろう。
お前は断ちがたい絆によって結ばれ、その者を抱き、お前に似た多くの者を生むのだ」


エバ
「わたしはその声に従いました。
やがて、わたしは、いかにも美しく背の高いあなたのすがたを見つけました。
しかし、先ほど見たあの水面に浮かんだ姿に比べれば、美しさも柔和さもしとやかさも、
ずっと劣っているように思われました。
わたしは向きを変えて逃げました。」


~・~・~・~・~・~
エバの見つけた「あなた」とはもちろんアダムのことです。
エバ、素直すぎます。
さっき見た水面の姿(自分)に比べると、なんか美しさも柔和さもしとやかさもずっと劣る、って、それがアダムの第一印象かい…。
しかも逃げました。容赦ないです。よく知らん相手に近づくのが不安だというのはわかるにしても…。

叫ぶアダム

アダム
「引き返してくれ、美しいエバ!
お前は誰から逃げているか知っているのか。

いま自分が逃げているその者から生まれ、その肉でありその骨であることを知らないのか。
わたしはわが魂の一部としてお前を求め、わが半身としてお前を求めているのだ」


エバ
「あなたはそう言って優しくわたしの手をとられました。
わたしは素直に従いました。
そのときわたしは、男らしい優雅さと知恵が美しさにまさり、
知恵こそが真実唯一のものであることを知りました。」


~・~・~・~・~・~
アダムは何をしたわけでもないのに、遠くから見たエバから逃げられ、
引き返してくれ!と大声で叫びます。
大変男らしいです。
でもその甲斐あって(?)、エバはアダムのほうが自分より素晴らしいと思うにいたりました。
そして、この後二人は夫婦となり、神に従って多くの物事を二人で話し、物事を決め、それぞれの仕事をなし、手を取り合って楽園での生活をつくっていきました。

ちなみに、外見は女のほうが美しい、中身は男のほうが知恵がある、こうしたジェンダーバイアス的なものについては、17世紀のミルトンに文句を言うほかありません。

エバへの蛇の誘惑とアダムの嘆き

 さて、アダムとエバは心から愛し合いその生活を楽しんでいましたが、やがて、蛇がエバを誘惑し、知恵の実を食べるように仕向け…。
 アダムは、エバが致命的な罪を犯したことを知るや否や、驚愕し、茫然自失の体で立ちすくんでしまいます。

アダム
「ああ、創られたもののうちでもっとも美しき者よ、
神の御手によって最後に、もっとも善き者として創られた者よ!
お前が失われたとは、いったいどうしたことなのだ!
かくも突然お前が失われ、いまや死ののろいを受けるに至ったとは、どうしたことなのだ!
…(絶望の嘆き)……
… お前なしでどうやって生きていけよう?
たとえ神がもう一人、もっと美しい別のエバを創られるにしても、
私の心は痛みから逃れられない。
わたしの肉の肉、わたしの骨の骨、それがお前なのだ。
お前の境涯からわたしは絶対に離れないつもりだ、――幸、不幸いずれの場合にしても!」


~・~・~・~・~・~
こうして、アダムもまた、神に逆らい知恵の実を食べることを選びました。
そして、食べた後――、二人は今までとは違う刹那的な愛の交わりに熱中するも、その一時的な情熱の炎が醒めるや、失われたものの大きさに絶望し…、お互いがお互いを非難し、自分がいかに今まで相手に尽くしてきたかと恩を着せ合い、いつ終わるとも知れぬ空しい時を過ごします…。

エフライムよ、お前を見捨てることができようか!

「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。
わたしは激しくこころを動かされ、あわれみに心を焼かれる。」(ホセア 11.8)


 これは、裏切りを重ねたイスラエルの民に対して、神が言われたことばです。
 それは、神を裏切った人類全般に対しての神のことばでもあります。
 裏切ったわたしたちを滅ぼすなり作り変えるなりして、もっと従順で賢明なあらたな人類と過ごすことだってできた神様ですが、それを望まれませんでした。
 愛が強すぎるため、神の愛は、神の義に逆らいます。
 その二つを和解させるため、神は自分が人間の一部となって、彼らを引っ張り上げることを選ばれました。

 アダムもまた、エバが大きな罪を犯したことにおののきます。
しかし、その罪のゆえにエバを失うことなど耐えられない、たとえもっと良いエバが創られても、それではダメだと感じています。
 そしてアダムはエバを失うくらいならともに神を裏切って滅びに至った方がよいと、エバと同じく楽園を失う行動に出ました。それは、物事の本質を見誤った愚行としか言えない愚行でした。

しかし、そんな愚かしい結論を出したアダムは同時に、確かに神の似姿だという感じがします。

たしかに、愛のために自分を生け贄として相手を救うという方法で自分の義を曲げた神と、エバへの愛によって、そのエバやそんなエバを愛する自分を救うことだって何だってできたであろう全能の神に逆らったアダムの傲慢な愚かさには、無限のスケールの違いがあるのですが、…、それでも愛が義に勝るとしてしまう性質はやっぱり似たものだという感じがするのです。

 また、アダムのことばかり言ってしまいましたが、
そもそもエバが禁断の実を食べたのだって、
「神さまはこれを食べたら死ぬと言われたけど、
もしかしたら本当に蛇の言うように、アダムを神のようにいっそう立派にするのかもしれない、
それならば、わたしがまず食べてみよう、そして死ななかったらアダムにもあげよう、愛するアダムのためならば、そのくらいの犠牲はたやすいこと」
という思いだったのかもしれません。(少なくともこの文学作品ではそのように暗示してあります。)
 そうだとしたら、取り返しのつかない罪ではあったけれども、お互いにお互いを愛した結果ではあったわけです。ただ、その愛が強すぎた上に、少しばかり判断力が足りず、傲慢だっただけで。
 判断力の不足とか傲慢さとかをのぞけば、それはまさに神の似姿のスモールバージョンであり、罪でありながら愛おしくもなってきます。
 どうでしょう?

 ミルトンの失楽園。それは罪の物語でありながら、愛の物語でもあります。
文学作品ですが、愛というものを本当に美しくあらわしているゆえ、時にはこうして美しさを楽しむこともいいんじゃないかと思います。
 今日も読んでくださって、どうもありがとう。

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