こんにちは。
今回は、カトリック教義において、時折話題になる「隣人」の範囲についてです。
隣人=同教区の人々?
近年ではその影響も随分薄まりましたが、実は伝統的に、カトリックの教義では「隣人」を「同じ教区の人々」としてきました。
が、そもそも、「隣人」に範囲があるのがおかしい、ましてやなぜ教区なのか、と思うのが普通の感覚ではないかと思います。隣人に範囲を設けていないプロテスタントの方が、ずっとまともじゃないか、と。
それは常識的であり、よく理解できます。
しかし、そこはカトリック教義。
その意図を詳しく説明されると、なるほど、と思う背景があるものです。今回は、それについて考えてみたいと思います。
隣人とは
あなたの隣人は誰か。
そう問うた律法学者に対し、キリストは良きサマリア人のたとえ話を話します。(ルカ10.25-42)
強盗に襲われて倒れている人に気づいたのに、ユダヤ社会の指導者である祭司やレビ人(神殿の奉仕をする役職の人々)は見て見ぬふりをしました。
しかし、ユダヤ人と不仲であったはずのサマリア人は、それを見て気の毒に思い、助け起こして真摯に世話をしました。このサマリア人こそが強盗に襲われた人の真の隣人であるという話です。
ですから、「隣人」とは、その態度であって、本来人種とか国籍とか身分とか宗教とか住んでいる場所とかではありません。
こう考えると、隣人を同教区の人と定めるカトリック教義は、むしろキリストの言葉を曲げているように思われます。
しかしながら、実際のところ、本質的な次元で言えば、カトリック教会においてもそれは基本のスタンスです。
では、なぜ?という感じがしますが、それでもなお意図的に、カトリック教会はあえて「同教区」という制約を加えているのです。
以下では、その意図が何なのか、見ていきたいと思います。
すべての人を隣人とするときの落とし穴
変に思われることはわかります。が、考えてみてください。
「人類すべてが隣人」「世界中の人を愛する」というとき、それは抽象的な言葉にならないでしょうか。
近くに実際にいる誰かを愛するとき、それは喜びだけでなく、しばしば痛みをも伴います。誤解があったり、傷つけあったり、それでも努めて許し合ったり…。本来、血肉の通った人間の相互のかかわりとは、そういうものです。
しかし、「世界中の人を愛する」というとき、それはしばしば抽象的になります。
地球の裏側にいる名前も知らない誰かのために祈るとき、寄付するとき、貧困や戦争反対など何かのキャンペーンのアクションを起こすとき、もちろんそれは良いことですが、実際に人として触れ合う意味での「愛する」とはちょっと性質の違うものになっています。そして、私たちはそれにしばしば気が付きません。
ジョン・レノンは、世界平和を訴えましたが、実の息子(最初の妻シンシアとの息子ジュリアン)に対しては、愛情を示すことができませんでした。複雑な育ちから自己評価の極端に低い所と高い所を持ち合わせたジョンは、自分のイヤなところをそっくり受け継いでいるように思われた息子を、十分に受け入れることができなかったようです。
ジュリアンは、「なんでパパは、世界平和と愛を説いているのに、身近な人は愛せないんだろうね」 と言い、ジョンから浮気をされたうえ捨てられたシンシアは返す言葉がなかったそうです。
そしてジョンもまた、自分を変えられずともそんな自分をわかってもおり、「人類愛を説くくせに、僕は人間が嫌いなんだ」と言っています。
それは、彼のみならず、私達人間一般が陥りやすい罠です。
「隣人」を無制限にしない意義
ですから、カトリックの教義において、あえて「隣人」の範囲を定めているのは、抽象的な「人類愛」の実践のみで私たちが満足してしまい、実際に身近にいて自分と合わない人々を愛するという本来の隣人愛からの逃げ道にしてしまうことを防ぐ意図があるのです。
もっと言ってしまえば、神様のことは好きだ、でも教会という共同体の中での人間関係は煩わしくていやだ、なんて声を聞くこともあります。(実はそれは私です。)
でも、神を愛することは人を愛することですから、身近な人を愛さずに神を愛するというのは矛盾のはずです。
そんなとき、神という存在が、地球の裏側の人々以上に、自分にとって都合のいい抽象的な存在になってしまっているのかもしれません。
総じて、「隣人を同教区の人々と定める」この教義でもって、「同教区の人を隣人として愛すれば、他の人々を隣人として扱わなくていい」などというものではありません。
本質的には、隣人とは、同教区のみではなく、すべての人です。
しかし、抽象的な隣人愛に逃れて私たちが満足してしまうことがないように、カトリック教会はあえてそう定めているのです。
運用の現実
もっとも、「教区」というものがかつてほど地域の重要なファクターでない現在において、身近な人々の範囲として教区をもちいることは、あまり現実に即したものではないかもしれません。実際、ベネディクト16世もかつて教理庁長官だった時代にそう認めています。
もしかしたら、マザーテレサのいうように「まずは家族」という言い方とか、もしくは職場とか学校とか町内とかのほうが、同教区というよりはまだピンとくるかもしれませんね。
でもおそらく、どんな言い方をしても適切とはいいがたく、代わる言葉がなかなか見当たらないのでしょう。
もし、この「同教区」という規定のせいでカトリック信仰から離れてしまう人が出るとしたらとても残念なことで、個人的には、誤解を招くことが多いのならむしろもう廃止してもいいんじゃないか、とすら思うのが正直なところです。
今日も読んでくださって、どうもありがとうございました。
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