ギリセーフだと煉獄の妙

まじめな教義・聖書の話

天国と地獄。

天国と地獄。
もしくは極楽と地獄、奈落。
 キリスト教でも仏教でも、また他の多くの宗教でも、こうした死後の世界があるとされます。
 そして、そのどちらに行くかで、その後の待遇は極端に異なります。
しかし、そのどちらに行くのかの判定はいったいどうなっているのでしょうか。
 聖書によれば、「飢えていた人に食べさせ、乾いていた人に飲ませ」、だとか「神を愛せ、隣人を愛せ」だとかがその判定基準のようですが、
抽象的過ぎてなんだかわかりづらく思えますし、程度の差こそあれ、誰でもそうだし、誰でもそうじゃない、ともいえそうな感じもします。
 しかも、そこにカトリックの場合は煉獄まで付け加えており、一発アウトじゃない感じがするのは嬉しいけれども、ますます混乱してきます。
 そこで今回は、これらの事柄について述べてみたいと思います。

煉獄の創造

 煉獄というものを定めるカトリックの教義に対して、聖書に書かれていないことを教義として勝手に付け加えるのは良くない、という批判があります。
 確かに、煉獄の概念は、カトリック教会の歴史の中で生まれてきたものであって、聖書から直接きたとは言いづらいものです。
 ですが、ベネディクト16世はかつて教理省長官だった時代に、そのような問いを受け
「もし煉獄がないならば、それを作り出す必要がある」とまで言われています。
「なぜならば、」と彼は続け、「亡くなった人のために祈ることほど自発的で、人間的で、普遍的に―あらゆる時代、あらゆる文化に―、普及していることはそう多くはないからである」と説明します。
 つまり、「愛する死者たちのために祈ることは、理論で押しつぶしてしまうにはあまりにも強く美しい人間的な衝動であり、死を超えて愛の連帯が存在することの証でもある」と。
 彼の言い回しは独特で、たまにわかりにくいときもあるのですが、
これはつまり、わたしたちが死者のために祈りたくなるように創られている以上、煉獄も存在するに違いないから、それを教義とすることには意味がある、という意味と考えてよいかと思います。
 ちなみに初期のプロテスタントは、理論上煉獄を認めないから死者のために祈ることを認めず(つまり、死者が天国か地獄かに確定的に行っていると考える以上、死者たちがわたしたちの助けを必要とするものではないので)、
たとえばカルヴィンは息子の墓前で祈っている婦人を「迷信の罪」を犯したとして鞭打たせたといいます。
 しかしこれは、神学理論などという難解なものを超えて、直感的にどこか人間として不自然な感じがするのではないでしょうか。
(もちろん、それによってもちろんカルヴィンの、またほかの宗教革命者の功績を否定するものではありません。ただ、やはり何か既存の大きな権力に立ち向かおうというときには、優れた人でも多少極端になってしまうこともあるということかと思います。)
 直感的におかしいと思う、それがつまりは人間がそう創られている、ということでしょう。
 そうした紆余曲折を経て、その後ドイツ・ルター派は煉獄に関してはカトリック的な実践に戻ってきています。
 こうしたことから結論として、聖書に直接的な記載がなくとも、煉獄というものにはやはりそれなりの重みがあるのではないかと思います。

煉獄とはどんな場所?

 行ったことはないし、行って帰ってきた人も普通いないしで、なんともわからないのですが、ある本(脚注;末尾に記載)で、わかりやすくてわたしの感覚としてはすごく腑に落ちる表現がなされているのを見つけましたので、ご紹介したいと思います。

「すばらしい存在が目前にいて、あなたを愛していることを知ったとき、
今までこんなに愛されたことはないと感じるほどのとき、
ふと、わたしは何ヶ月も風呂に入っていなかった、、ことを思い出します。
わたしはすごく汚くて、このままでこのすばらしい方の胸に飛び込むわけにはいけないので、
長いシャワーを浴びなくてはなりません。
会いたくてたまらないのに、会えない苦しみ、そしてわたしの体に長くこびりついた汚れを落とすために擦る痛み、、煉獄とはこのようなものです。」

なるほど。
煉獄とは、天の国に入る前に身を清める場所、そしてその清めには痛みが伴う(それは地上でもだいたい同じですが)というわけですね。
 そして、この本は、「そのシャワーを浴びるか、それともそのシャワーを拒否して神に会わないことにするか、それを決めるのはあなた自身です」と続けます。
 地獄に行きたくないのに無理やり落とされるというのとは、どうも様子が違うようです。
 しかしながら、これは、「いまや死は第二の死、すなわち自己封鎖による神の拒絶のみである」とするカトリックの教義とも合致しますから、退ける理由はありません。

 ただ、こう聞くと、何だ、自分で拒否しなければいいんじゃないか、じゃあ地獄なんて行かないことを選べばいいから、大丈夫じゃないか、と思ってしまうかもしれませんが、もしかすると事はそう簡単ではないかもしれません。
 そこに来たときに見せつけられる自分の「汚れ」とは、わたしたちが人生においてとても大事にしていて、絶対に捨てたくないと思っていたものかもしれないからです。
 おそらく程度の差こそあれ、これは誰にでもあることでしょう。
いうのも、わたしたちは自分の中の正義なしには生きられない一方で、わたしたちの正義は、必ずどこか汚れているからです。
 生きていたときに大事にしていた規律とか自分の愛情だと感じていたものを汚れだったと認めて、自らシャワーを浴びて擦りとることを受け入れるか、それとも今まで大事にしていたものを守るか。
 それは、どちらにしても本当に身を切られる思いでしょう。ですから、シャワーを浴びる決意とはこの世では為しえなかったほどの謙遜の底まで下りることとも言えそうです。

もしシャワーを拒絶したら…

毒麦と燃え盛るかまど

 ともあれ、シャワーを拒絶、つまり自分の人生で本当に大事にしていたものを捨てなければいけないくらいならば、滅びてもいい、神に会わなくともいい、そういう決断もありうるでしょう。
 で、そういう決断をしたら、その人に何が起こるのでしょうか。
地獄に行くと言いますが、そもそも地獄って、どういうものなんでしょうか。

 聖書では、地獄に落ちると火で焼き尽くされてしまうと言います。
 そこでここでは、良い麦と悪い麦のたとえ話から、キリストが語った地獄像について考えてみたいと思います。

… ある人がよい種を自分の畑にまいた。
ところが、人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。
苗が育って毒麦も現れたとき、しもべたちが主人のところにいて言った。
「だんな様、畑にはよい種をまいたのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」
主人は
「敵の仕業だ」
と言った。
そこでしもべたちは
「では行って、抜き集めてきましょうか」と言うと、
主人は、
「いや、毒麦を集めるとき、よい麦まで一緒に抜くかもしれない。
刈り入れまでそのままにしておきなさい。
刈り入れのとき、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、よい麦のほうは集めて蔵に入れなさ
い』と言いつけよう。」(マタイ 13.24~30)


 そして、このたとえ話について説明を求められたキリストは、
「よい種をまくものは人の子(キリストのこと)、畑は世界、よい種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
毒麦をまいた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、借り入れるものたちは天使である。
だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなる。
人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを集めさせ、
燃え盛るかまどの中に投げ込ませる。」(マタイ 13.37~42)


というように解説をされています。

 わたしがよい麦なら大丈夫だけど、もし毒麦だとしたら焼かれてしまう、どうしよう、と思うかもしれません。
 が、よく考えてみると、わたしたちの中にはよい部分もあり悪い部分もあります。
 完璧によい人間も悪い人間もいません。
 そういう意味では、わたしたち一人ひとりの中によい麦も毒麦も育っているといえます。(実際、毒麦とはそれ自体に毒があるというものではなく、それにつくカビに毒があるというのも何だか象徴的です。)
 そして、この毒麦の部分を自ら苦しみつつ清めるシャワーが煉獄であるとしたら、地獄とはそのシャワーを拒否した者たちが送られ、「毒麦」の部分を無理やり焼き尽くされるかまど、…だと言えるのではないでしょうか。

 ん?どちらも毒麦の部分をとにかく消し去るということでしょ?同じ?と思うかもしれませんが、ここには自由意志という点で大きな違いがあります。
 神さまは人間に自由意志を与えられ、愛ゆえにその自由意志を常に尊重されてきました。
 創造者たる神であれば、人間の気持ちをご自分に無理やり向けることだってできるのに、それはなされず、あくまで私たち人間が自分の意志で神を愛することを望まれたのです。(参照;神はなぜ人をむりやり救ってくれない?
 それもすべて神の愛ゆえです。
 ところが、このかまどの前に来ると、アダムとエバ以来常に神から与えられ、尊重されてきた私たちの自由意志という権利がとうとうはぎとられるということ、つまり私たちが拒否しても強制的に、私たちの魂の一部が焼き尽くされてしまうのです。

「私」の消滅

 それは、今までわたしたち人間の自由意志を尊重してくださっていた神様としては、もう最終手段のように思えます。
 そのままの私たちを愛し、だから私たちの自由意志でもって神のところへ戻ってきてほしいと思い続けられた神さまが、とうとうそのままの私たちを受け入れることをやめられるのですから。

 それでも、結果だけを見たら、シャワーを浴びるのとどう違うのかと思われるのかもしれません。
 確かに、どちらにしろ汚れの部分を落とすのなら、同じ結果になるようにも思われます。
 しかし、結果が同じでも、自分の人格の悪いところを痛みを感じつつも自分で時間をかけて変えることと、
たとえば、他人に無理やり脳手術なんかをされて、別の人格に作り変えられるのは、全く違うと思いませんか?
 前者の変化はもともとの人格の意思の結果でそこに過程がありますが、後者は結果のみです。 結果に向けた意思はなく過程もありません。
 しかもこの場合は、脳どころか自分の魂の一部分を、(自分の意志でこすり落とすのではなく)、強制的に消し去られることですから、そうなると、それはもう「私」であっても「私」ではない。
 もっと言ってしまえば、かつての「私」はもうどこにもいなくなってしまう。
 これはもう、永遠の滅び、と言っていいのではないでしょうか。

究極の自己封鎖の先に

 こうして、死んだ後にも神を拒絶するという究極の自己封鎖、究極の孤独の選択をする人間は、もはや問答無用にその毒麦の部分を焼き尽くされて、全く違う人間になってしまう、そのもともとの人間は滅び去ってしまう、つまりは永遠の滅びに入る…。
 これは、なかなか腑に落ちる地獄の説明のしかたである気がするのですが、どうでしょうか。
 それは、神による「私」という人格の永遠の消去という最後の手段です。
怖い…ですよね。

 ただ、完全に悪いだけの人間というのもいないのではないか、と思います。
 ですから、たとえばヒトラーの罪状は歴史上まれに見るほどにすごかろうと思うのですが、
それでも人間ですから、100%全部が全部悪でできているというわけでもないでしょう。
 だから、もし彼がシャワーを浴びるのを拒否したとしても、本当に彼のすべて、100%が焼き尽くされて消え去るというものでもないのではないかも、と思います。
 99・9999%が焼き尽くされても、ほんのちょっと残る部分はあるような。
 そう思うと、きっとものすごく小さくなった、たぶんかつての0.000001%くらいになったかつてヒトラーだった人が、天国にちょこんと座っているんじゃないでしょうか。

 今日も読んでくださって、どうもありがとう。

________
脚注;The amzing secret of Souls in Purgatory, An interview with Maria Simma、Queenship Publishin
日本語版「煉獄にいる霊魂驚くべき秘訣」いつくしみセンター出版

カトリックのジャーナリズム編集者でもあるシスターと、ある女性信徒との対話からなる本です。この女性信徒は、死者の魂から話を聞くという特別なカリスマを与えられており、その経験をシスターが聞き取り、まとめています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました