第二週;照らしの道(4)~自分をむなしくされたキリストの人生を観想する

イグナチオの霊操

イグナチオは、第三週の前半でまず、キリストの人生を観想することをすすめる。

まずは、ご降誕の観想。
「その場にいる人々を見る。マリアとヨセフ、生まれたばかりのイエズス。
自分は卑しい奴隷として実際この三方のみ前にいると考え、できる限りの尊敬をこめて、おそばで仕え働く。」(霊操114)


ご公現の観想。
「三人の博士は星に導かれ、イエズスを礼拝しに来る。
『私たちは、救い主の星が東の空に輝くのを見、彼を拝みにやってきました。』」
(霊操267)

私は?
私は心の中に、偉大な星を、いつも見ているであろうか?
たとえそれが砂漠のように荒れた道であろうとも、キリストの星に従って歩いているだろうか?

主の奉献の観想。
「マリアとヨセフは、幼いイエズスを神に捧げるために神殿にいく。
シメオンは幼子をその腕に抱く。
『私の目は救い主を見た…、すべての国を照らす光を…』」
(霊操268)


かくれた生活の神秘の観想。
「彼は、両親のことばによく従い、知恵も年齢も恩寵もますます豊かになられた。
大工の仕事をされていたようだ…」
(霊操271)

ナザレでの生活は、公の生活を始める前のただの歴史的事実ではない。
多くの人に知られず、大工として働いた人間イエズスの汗にふれることで、私たちは救いに導かれる。
ナザレは教える。謙遜と従順、労働と平凡な日々の中にある価値を。
かくれた生活、人に知られない日々の生活の中にもまた神秘がある。


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