嵐をしずめるイエズス
「弟子たちはおそれおののいてイエズスを起こした。
弟子の信仰がうすいのを見て、イエズスは『何をこわがっているのか、信仰のうすい者よ』とお𠮟りになった。」
(霊操279)
イエズスは、「教会という船」にいつもともに乗っておられる。
困難が大波のようにわたしたちをのみこもうとするとき、彼に信頼し、その愛を確信しよう。
たとえ、主が ”眠って” おられるように思われても…。
水の上を歩かれるイエズス
「弟子たちは、主が湖の上を歩かれるのを見て、幽霊だと思っておびえ、おそろしさのあまり叫び声をあげた。イエズスはすぐに彼らに言われた。
『しっかりしなさい。私だ。恐れることはない』
・・・
(イエズスとともに水の上を歩こうとして、沈みかけるペトロ)
『主よ、助けてください!』
イエズスはすぐに彼に手を差し伸べて言われた。
『なんと信仰のうすいことだろう。なぜ疑ったのか』」
(霊操280)
こころみにあって沈みそうなとき、ペトロのように叫ぼう。
「主よ、助けてください!」と。
マグダラのマリアの回心
「イエズスは彼女をかばって言われた。
『彼女は多く愛したから、多く許された』」
(霊操282)
イエズス、病人にとっての医者、罪びとの友人。
天の父の憐れみといつくしみの受肉。
謙遜にイエズスにかけより、み顔を仰ごう…
パンを与えられた私たちの主キリスト(霊操283)
パンを増やされた奇跡。
イエズスはすべての人のために食物となられた。彼はご自分のすべてを与えられる。
捧げつくされた存在。
イエズスの変容
「キリストは様子が変わられ、顔は太陽のように、服は雪のように輝いた。
…天から声がひびいた。
『これは私の愛する子、彼に聞け!』」
(霊操284)
死から復活へいたる過ぎ越しの神秘。
私も変容の恵みを願おう。
「道の選定」、あるいは「人生の改革」、それは恵みのわざの中で、私を変える。
キリストの過ぎ越しの神秘に参加しながら、古い人から新しい人へ。
神殿の清めとイエズスの権能
「私たちは、聖霊の生ける神殿」(コリント6.19)
イグナチオは、常から私たちに、一日を村で、一日を砂漠で、また湖で、町で、野で、また神殿で、過ごすことを勧めているが、今ここでは、特に神殿で過ごすこと(の観想)を勧める。
私たちのふれるイエズスはいつも変わらない。彼を眺めることで、人生の選定と改革のための力を与えられる。
(霊操288)
ラザロの復活
「私は復活であり命である。私を信じる人は、死んでも生きる。」
(霊操285)
イグナチオは、霊操第二週での一週間を特に、御母とおられるイエズス、洗者聖ヨハネとおられるイエズス、使徒たちとともにおられるイエズス、民衆とともにおられるイエズス、敵に向かわれるイエズス、そして孤独なイエズスとそれぞれ一日をともに過ごすよう勧めているが、ここではベタニアの親しい家族とともにおられるイエズスとともに過ごす。
(注;ラザロはベタニアの家族の一人)
枝の日(イエズスのエルサレム入場)
「ダビドの子よ、私たちを救ってください。主の名によって来られる方は祝されますように!」
(霊操287)
すべての人のために、そして私のために、この世に来られたイエズスをお迎えする恵みを願おう。
王でありながら身をいやしくされたイエズス、
彼には罪がないにもかかわらずこの世の罪を背負う死刑囚として、その身を捧げたイエズスを。

イエズスのエルサレム入場までを観想したところで、霊操は二週から三週へと移る。
第三週では、枝の主日(エルサレム入場)後の出来事、いわば聖書のクライマックスの一週間を集中的に観想します。
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