第二週;照らしの道(12)~選定

イグナチオの霊操

概論

神は私たち一人ひとりについて望まれることを、み節理のうちに示される。
 しかし、私達人間にとってそのみ旨を知ることは容易ではない。(得に自分の知恵や能力によって、神の御心を推し量ろうとすることは、不可能であるばかりか危険ですらある。)
 しかし、イグナチオは言う。私たちは、信仰と祈りと霊をわきまえ知ることによって、私たちについて望まれる神のみ旨を知ることができる、と。
 そして、私たちはそのみ旨に従い、人生の選定をすることになる。

選定の性質と選定の基本指針

イグナチオは、選定を次のように分けている。
「変更できない選定。はかりの両側に、たとえば司祭職と結婚とがある場合。
 変更できる選定。物質的富を持つか、持たないか、などの場合。」
(霊操171)


また、良い選定をするには、真剣な態度で臨むことが必要である。
そのためイグナチオは、「死に至る時を考える」という原則を一つの指針をして与える。
人生が終わるとき、私は何を選んでおけばよかったと思うか。
死に臨むときに思いをはせる、それはこの地上の旅でにおける羅針盤、舵となってくれる。
(霊操186)

み旨を知る際の3つのやり方

第一のやり方 

(これはやり方というより、こういう場合もあるという感じですが…。)

「神が人間の意志を動かし、とらえられる時。
その際には、人間の側にもはや疑いはなく、主に示されたことを選びとらずにはいられない。
恵みの力によってキリストからそうはっきり呼ばれた、聖パウロや聖マタイがこの場合にあたる。」
(霊操175)


 かつてはキリスト者たちを迫害する側であったパウロ。
聖ステファノがユダヤ人たちに石を投げられて殺された時には、投石をする人たちが脱いだ上着の番をしていたと言われています。
 またマタイは、徴税人の頭でした。
徴税人というのは、現代でいえばそれこそ暴力団のような、あえて反社会的行動をとることにした人々、というように見られていました。参考;徴税人はなぜ罪びととされるのか?https://kimama-catholic.work/tax-collectors-in-bible/
 しかし、彼らはともにキリストから特別なやり方で招かれます。

 パウロはダマスコへ向かう途中、突然強い光を見ます。
そしてその光は、「なぜ私を迫害するのか。――私はあなたが迫害しているイエズスである。」と語りました。そして「あなたのするべきことを知らせよう」と。
 マタイは、徴税人事務所に座っているとき、突然キリストから「私についてきなさい」と言われます。そしてすぐにすべてを捨ててついていきました。
 そこにはもう疑いの入る余地はなく、それが天命だということにはっきりとした確信があるケースです。きわめてレアケースのような気もしますが…。

第二のやり方

「良い霊と悪い霊とを識別する過程で体験するなぐさめとすさみ。
これに基づいて、神が何を望んでおられるかを知る。」
(霊操176)


 これのためには、以前に述べた霊的弁動の規則を知ることが重要です。
 たとえば、悪い霊は、良い仮面をつけて現れて少しずつ悪い方へ引き込みますが、良いものと信じて悪い方へ行くとき、私たちは、深い落ち着いた平和よりも、騒々しい興奮(喜びであれ義憤であれ)を持ちがちなこと参照;第二週のための霊的弁動の規則;https://kimama-catholic.work/lighten-10/
 悪い方向から良い方向へ向かおうとするとき、悪い霊は悲しみや自己批判を起こさせて(これもまた一見正しく思われるところに注意)良い方向へ向かうことを妨げようとし、
一方で良い霊は落ち着きと平和を与えて励ますこと(参照;霊動弁別の規則;https://kimama-catholic.work/cleanse-7/、疑悩の規則;https://kimama-https://kimama-catholic.work/cleanse-8/などです。
 そして、これは善悪のみならず、より広い選定にも通じるものがあります。
ある道が、本当に神のみ旨であれば、そこには深い落ち着きと平和があります。
 人間を単に「理性をもった動物」と考えるのではなく、感情なども含めたより全人格的な存在として考えるイグナチオの姿勢がここにも表れています。

第三のやり方

「魂が冷静に理性的に見極められるようにする。
まず、あることを望んば場合の利益と不利益を考え、次にそれを選ばない場合の利益と不利益を考える。
ある仕事をうけるかうけないか、修道生活か結婚生活か…。
そして両方をはかりにかけ、重い方、つまり理性的に自分が傾く方をとる。」
(霊操177,181)


 三つ目ではじめて理性をつかう方法が出てきました。
 宗教と理性とは両立しない等と誤解している人もたまにいらっしゃるかもしれませんが、そうではありません。
 もちろん神は人間の理性を超えると考えるのが宗教ですから、自分の思考よりも神を優先するという、あえての放棄というものはあり得ます。
 しかし、当然ながら、宗教もまた理性をも神から人間に与えられた能力の重要なものの一つだと考えます。イグナチオの態度もそうしたものです。

 また、余談になりますが、
 現代のセルフ・カウンセリングの方法の一つとして、何かの悩みがあるときに、紙にその問題を書いてみる、特にメリットデメリットも思いつくまますべて書き出してみる、というものがあります。
 私たちは悩むとき、しばしば自分でも気づかずに延々と同じことを考えており、さらには、それによって疲弊するという不思議な悪循環におちいっているもので、そんな時これはなかなか役に立つ方法です。
 そして、このイグナチオの三つ目のやり方は、こうした現代のセルフ・カウンセリングにも通じるところもあり興味深いものです。

選定後

「選んだことを実行にうつす前に、選定を受け入れ、いっそう確かなものにしてくださるよう、主に祈らなければならない。」
「種のみ前に行き、選びを捧げる。
聖なる主人がこれを自分への最大の奉仕と栄光のためにこれを受け入れ、認めてくださるように。」
(霊操182,183)

ここまで努力しても、やり方1の場合を除き、やはりその選定が神のみ旨かどうかを確信することは困難なものです。
やはり最後は一番大切な祈りがきます…。

今回も読んでくださってありがとうございました。

〈追記〉前回まで、イグナチオの霊操を紹介する間は、彼の優れた思想を少しでも正確に伝えるため、筆者の稚拙な主観を交えず、極力原文のみを載せることにしていました。
 が、やはり時代的なものなどもありますし、それでかえってわかりにくい所もあったのかもしれないと思い、今回は筆者の主観的な文章も加えてみることにしました。
 太字の部分はイグナチオの霊操よりそのまま抜粋したもの、である調の文章はイグナチオの霊操の抜粋そのものではないが大体を要約したもの、ですます調の部分は私の文章です。

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