「親を敬え」

まじめな教義・聖書の話

虐待した親でも?

 旧約聖書は「あなたの父母を敬え」と言います。(出エジプト記20.12)
それはとても大事な価値観だと思います。社会の秩序の基礎をつくるものであるといっても過言ではないと思いますし、子供を産み、育てるというのは本当に想像を絶する大変なことです。ですから、そうして自分を育て上げてくれた親を敬うというのは人として当然のことでもあると言えます。
しかし、育った環境というのは一人一人違います。自然と親を敬うことのできる環境に育った人は、ある意味で幸せです。
 虐待のニュースは後を絶ちません。そうした事実に直面したとき、わたしたちはこの規律に例外を設けたくなります。
 しかし、自然にできるときのみ有効な規律というものに意味があるのか、という疑問も同時に生じます。また、これが神が定めた規律なら、それに人間が手を加えていいのかという問いもあり得ます。
 今回はこれについて思いをめぐらせてみたいと思います。

親問題について、キリストは?

 ところで、新約聖書において、キリストはどう言われているでしょうか。
親を敬えという旧約のおきてに関し、ファリサイ派や律法学者たちに対して以下のように論じている箇所がありました。

「なぜあなたがたは自分たちの言い伝えのために、神のおきてをやぶるのか。
神は、『父と母を敬え。父または母をののしるものは死刑に処する』と言われた。
しかしあなた方は言う。
『父または母に向かって、わたしのものであなたの役に立つものはすべてコルバン、すなわち神への捧げものとします』と言えば、もうその人は父または母に対して何もしないですむのだ、と。
こうして、あなたがたは、自分たちの言い伝えによって神の言葉をむなしくしている。」(マタイ15.1、マルコ7.1)


これによるとキリストは、親を敬う規定に例外を設けることを良しとされていないようです。

神の十戒

 そもそもこの「父母を敬え」というのは有名な神の十戒の一部で、十戒とは旧約聖書のなかの出エジプト記において、神がシナイ山でモーセに与えたという十のおきてのことです。
古代ヘブライ語で書かれたこれらについて考えてみたいと思います。

古代ヘブライ語でのニュアンス

 古代ヘブライ語は独特の世界観と美しさをもつ言語であると同時に、多少文法的に荒い(?)と思われるようなところがあって、現代の言語への翻訳にさいし、注釈なしにはその意図を伝えられないというような難しさが出てきてしまう時があります。(参考:キリストに兄弟はいる?
 この箇所もそうした場合の一つで、旧約聖書に出てくる十戒は、実は命令の形ではなく事実認識のような文法になっています。
 つまり、第四戒は一般に「あなたの父母を敬え」と訳されますが、実際は「あなたは父母を敬う」「父母を敬うのがあなたの道だよ」という感じのいいかたなのです。
 また、さらには、「敬う」と訳されたこの語の本来の意味は、日本語の「敬う」とは少し違い、「尊重する」とか「認める、大事にする」といったニュアンスです。ですから、親の人格などに依存する「敬い」「尊敬」とは少し違うようです。

申命記においての追記

 また、この十戒のうちの第四戒である「父母を敬え」において特に特徴的なことは、「そうすれば、あなたは、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る」(申命記5.16)というふうに、このおきてを守ることでもたらされる結果までをも記されているところです。
 これは十のおきてのうち第四戒のみの特徴です。
 もちろん他の九つの戒も結局は私たち人間の幸せに通じるのでしょうが(神の言いつけはそもそもすべて人間の幸せのためのはずですから)、この四戒においてはそれが特に強調されている感があります。
 ということからすると、この第四戒の定めは、わたしたちが良くない親をもったときに理不尽な規律と思ってしてしまうことをも想定しつつ、でもむしろ私たちが幸せになるためだからと、あえて強調して設定されたように思われるのです。

親を尊重する

「尊重する」とは 

 そうしたことからすると、親を「尊重する」「認める」ことは、わたしたち自身の幸いにとって重要なことであり、わたしたちは本来そうした道を行くように神から作られているのかもしれません。
 思うに、たとえ虐待する親のもとに生まれ、親の言動とか人格とかのどこをどうとっても尊敬することができないとしても、その親を人として尊重することは可能なのではないでしょうか。
 虐待を正当化することはできません。が、その親もまたその人なりの人生がある一人の人間だとして尊重することはまた別のはずです。

尊重していなかったら?

 逆に言えば、もし親を一人の人として尊重していなかったら、どうなるのでしょうか。
 思うに、親は子供にとってしばしば人生最初の他者であり、子の世界観の根底をなす存在です。
 親を受け入れなければ、その子供は世界や他人をも受け入れることが難しくなるかもしれません。
 また、ときに親の面影を鏡のなかの自分の姿に見ることもあるでしょうし、ふとした瞬間に、自分の思考回路のなかに親と似た部分をみつけることもあるかもしれません。
 親と同じ遺伝子を持っているのだから当然のことです。
 そうした時に、親を一人の人間として尊重していなかったら、そのままの自分を尊重することができるでしょうか。
 仮に自分をうまくごまかせたとしても、もしかしたら自分の子供がそんな欠点を持って生まれてくるかもしれません。
 自分のイヤなところを受け継いでいたり、自分の親にそっくりだったりするかもしれません。親を受け入れずして、そんな子供を受け入れることができるでしょうか。
 ……

 そして、何よりも、「敵を愛せ」とまで言われる神さまです。
 敵を愛するとは私たちの感覚からすると理不尽に思われる規律ですが、そこには私たち自身の幸福のため、きっと私たちの理解を超えた意味があるのでしょう。
 そうだとすると、たとえこの第四戒が理不尽に思われても、これが特に私たちの幸せのためと念押ししてあることを重視するべきかと思うのです。

神のことばをむなしくする危険


 そうした限りない深みのあるおきてを、自分たちの理解に合わないからと、その深さを想像することなく安易に曲げてしまうならば、確かに「神のことばを人の考えによってむなしくしている」といっていいのではないでしょうか。
 本来だったら親への務めとして親に渡すものであっても、自分の欲のためにただ手放したくない、渡したくないというのではなく、神への捧げもの、つまりは公共への寄付にするならば、それで親への務めは果たしたとみなす。
 それが律法学者やファリサイ派の「人の考えによって」加えた修正です。
そしてもちろん、わざわざ親に渡すくらいなら寄付するとまで子供がいうケースとは、よほどのことがあったのでしょう。

 そう考えると、彼らの考えというのはしばしば現実的・実務的で、時にむしろ現代の私たちにとっての常識や法律に近いところがあります。
 律法学者やファリサイ派がキリストから非難されていることを他人事と思ってはいられないのです。
 わたしたちの人間的な論理や感覚でもって、もっと深い意味があるかもしれないものの意味を失わせてしまうかもしれない危険性は、昔から変わらずつねにわたしたちに付きまといます。
 それはなにも宗教に限ったことではありませんが、特に宗教というものはその形而上的な性質上そうした危うさから逃れにくいことも事実です。
 神のことばを人間の考えによってむなしくしないように、言い換えれば、宗教的次元のおきてを私たちに理解できる単なる社会のためのルールに落としてしまわないように、わたしたち人間がその二者を見分ける思慮深さと、自分自身の理屈を過信しすぎない謙虚さを失わずにいけたら、と思います。
簡単なことではありませんが…。


追記:神の規律と一般の法律

 「宗教的次元のおきてを私たちに理解できる単なる社会のためのルールに落とすことのないよう」云々と書きましたが、これは逆のことも言いえます。
 つまり、本来の宗教的次元のおきて(例えば敵を愛せなど)を社会的な法律にすることも、おそらく宗教の予定しているものではないということです。
 この二者の区別は重要なものであるため、追加で記しておきたいと思います。

 そもそも、人間が人間に守らせるための法律であるなら、愛するとか敬うとかといった人の心の動きを規定することに意味がありません。
 ですから、一般に現代の法律では、人の内心の気持ちはもちろんのこと、そもそも人としての道徳とか倫理とかを規定してはいないと思います。
 たとえば「人を殺してはならない」というのは、日本で一般的に人として重要な倫理観かと思いますが(神の十戒の一つでもあります)、日本の刑法には「人を殺してはならない」と記載されてはいません。
「人を殺した者は~~の刑に処する」等と規定されているのみです。
 人の心とか価値観とか、またそうしたものに基づく人の行動は強制したくてもできないものだから、書いても意味がないのです。
殺すなと書いてあったって、殺す人は殺すでしょうから。

 そしてまた、「なんどでも許しなさい」とか「右の頬を打たれたら、左もむけなさい」という宗教的価値観を社会的規律にして、叩いたもの勝ちの無法地帯の社会をつくることも、宗教の予定しているところではありません。
 つまり、宗教的規律と一般の法とはそもそもの性質が違うのです。
 書いてもそもそも法律としては意味がなかったり、または社会の秩序を守る法律としては正しく機能しえなかったりするのです。
 守備範囲の次元が違うともいえるかもしれません。

 ですから、今回のファリサイ派や律法学者のように、人間的な考えで宗教的おきてを人間的なものに変えてはならないし、
またもしかしたら宗教的熱情のあまりにときどきある種の信仰者が望んでしまうかもしれないように(自戒も込めての言です)、宗教的おきてを社会的な法としてつかうべきでもないのです。
 そこで現れるのは宗教的慈愛に満ちた理想郷ではなく、むしろ荒廃です。
世の終わりまでこの地上に神と施政者が一致するような理想郷が実現することはありません。
 キリストが「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではない。廃止するためではなく完成させるためである。すべてのことが実現し天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5.17)といわれたことの重みをかみしめつつ、この話を終わりたいと思います。
 

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