弱い人間
なぜ神さまは無理やりにでも人間を救ってくださらないのでしょう?
なんだか不思議なタイトルになってしまいましたが、このように感じたことのある人は多いのではないでしょうか。
羊が羊飼いから離れてしまうことが羊にとってとても危険なように、神さまから離れることは人間にとって危険なこと。それなのに、どうして離れるままになさるのか。
わたしたちおろかな人間は、それが危険なことであることすらわからずに、離れて行ってしまいます。
もしくは、それが危険なことだと知っている時ですら、誘惑に負けて離れていってしまいます。
それほど、わたしたち人間は弱いのです。こんなに人間を弱くおろかに創っておいて、なぜ神さまは私たちを離れるがままになさるのでしょう、それは不親切というものではありませんか。あなたの一人息子だって、たがいに愛し合いなさいなんて言われているのに。
そんな文句の一つも言いたくなります。
今日は、そんな神さまの心のうち(?)について考えてみたいと思います。
人は神の似姿
神さまは人をご自分の姿に似せて創られました。(創世記1.26-27)
ですから、わたしたちは神さまに似たものです。
そして、それは言い換えれば、神さまは私たちに似たところがあるということでもあります。
もちろん完全絶対な存在である神さまと、きわめて不完全な存在であるわたしたちの間には、とてつもなく大きな差があります。
それは、どんな被造物どうしの違いよりも大きいものです。神さまと人間よりは、人間とミジンコのほうがその差は無限に小さいでしょう。
ですが、それでも神さまご自身が「自分に似せて創ろう」と言われたのですから、どんなにスケールに差があっても絶対に似ているはずです。
ですから、神さまのことがよくわからないときには、その手掛かりを求めてわたしたち人間の中をのぞいてみるのも実は一つの手段なのではないでしょうか。
そこで、わたしたち人間の性質をまずは考えてみたいと思います。
愛し愛されたい人間
そういえば、ジョン・レノンの歌にこんなものがありました。
Love is real, real is love,
愛は現実、現実は愛
Love is feeling, feeling love,
愛は感じること、愛を感じること
Love is wanting to be loved
愛は、愛されたいと望むこと
「Love」という歌です。
これは普遍的な人間の感情だと思います。誰かを愛すると、その人から愛されたいと願う。
相手からの愛を望む愛とは、いわゆるエロスの愛(本来これは性的な愛のみを意味するのではなく、相手からも愛されたいと望む人間的な愛をひろく表すものです)といわれます。
そして、このエロスの愛は、相手からの見返りの愛を求めない無償の愛であるアガペーとよく対比されます。
ですが、実はこの二者は相反するものではありません。
アガペーとエロスはまったく別個のものというよりは、アガペーはエロスを含み、超える、さらに大きい愛であり、似た性質も多分に持っています。
高められたエロスは、どんどん自分を忘れ相手の幸せを考えるようになります。そうして、高い次元に達したエロスは限りなくアガペーに近づいていくのです。
ですから、アガペーをもつ神さまであっても、相手に求めるエロスの愛情もまたお持ちなのではないではないでしょうか。
つまり、私たちが愛する人から愛されたいと望むように、神さまも私たち人間から愛されたいと望み、それが叶えられなかった時には悲しい思いをされているのではないか、ということです。
「愛されたい」とは?
では、私たちと同じように愛されたい気持ちをもつ神さまだとして、そのためにどうなさるでしょう?全能の神さまであれば、できないことはなにもないはずですが…。
ここでまた、神の心のうちを想像するために、似たものであるわたしたちの心のなかをのぞいてみたいと思います。
I can’t make you love me
わたしがどんなにのぞんでも、あなたにわたしを愛させることはできない
if you don’t
あなたがそうのぞまないかぎり
You can’t make your heart feel something it won’t
思ってもいないことを、むりに思わせることはできない
これはボニー・レイットの曲ですが、たくさんの有名な歌手がカバーしているようです。(わたしも実は今の今まで他の歌手の曲かと思っていました。)
題名はそのまま「I can’t make you love me」。
これもまた、人間の愛をよくあらわしていると思います。
わたしたちがどんなに望んでも、他の誰かの心を変えることはできない。だから、私たちの愛はしばしば一方通行になってしまい、心はひどく傷つきます。
そして、あの人の心をわたしに向けることができたら、どんなにいいだろう、と願います。
しかし、ここで立ち止まって考えてみてください。
もし本当にわたしたちが他の誰かの心を変えることができたらどうなるのでしょうか。
それで私たちは満ち足りるのでしょうか。
もし、人の心を自由に操ることができたら――。
わたしが愛する人に、わたしを愛させることができるならそれは一見、夢のようですが、実はその逆でしょう。
わたしたちは満たされるどころか、逆に愛の尊さを失います。自分を愛するよう他人を自由に操れるなら、その他人はあなたのロボットです。私たちは、自分が操れるロボットに愛されても、嬉しくないのです。
人の気持ちを操るとは、愛の尊さを失うことです。愛を失った私たちは、むなしさでたまらなくなるでしょう。
わたしたちは、自分が思い通りにできるロボットから愛されても幸せにはなれません。
相手には、わたしを愛する選択肢も愛さない選択肢もあるなかで、わたしを愛することを選んでもらいたいのです。
そして、私たちと神さまは、できること、できないことのスケールこそ違うものの、根本は極めて似た存在なはずです。
神さまのエゴと愛
このように考えると、わたしたちが神から離れるに任せておくという神のスタンスは、「人間たち自身に自分(神)を選んでほしい」という、私たちを愛するが故の神さまの思いのあらわれのように思われます。
それがたとえわたしたちの危険につながってしまうとしても、バカな私たちが自分で自分を傷つけてしまっても、でもそれよりも、わたしたちの自由意思でもって自分を選んでほしい気持ちのほうが強い。
それは究極のエゴ(?)であると同時に究極の愛でもあるのではないでしょうか。
イギリスのロックバンド、クイーンの曲に、
Too much love will kill you
大きすぎる愛はあなたを殺す
という歌がありました。これは歌詞の一部でもありますが題名も同じです。
愛はときに本能や生存すら脅かすほどの強さを持ちます。そして、自分をも殺すし、相手をも殺します。それでも、愛に私たちは価値を認めずにはいられません。
それは、わたしたちがそう創られているからです。
またその人間を作る際のモデルとなった神が、愛し愛されることを求める神であるからです。
おろかで弱いわたしたちが神さまから離れて危険にさらされても、無理やりわたしたちを安全なご自分のもとに引き戻してくれない神さま。
冷たいというか不親切というか自己中というか、なんとも形容しがたい感じもしますが、それもすべて愛ゆえです。
もっとも、エロスの愛とともにそれを超えた完全なアガペーの愛をももつ神さまが、本当に最後の最後まで、わたしたちを滅びるにまかせられるのかどうかはわかりません。
この世の旅路においては、わたしたちには選択肢があたえられています。神に近づくのも、離れるのも自由です。
ですから、この地上において私たちが神から離れ、他者と自分自身を痛めつけ続けても、神さまはムリヤリに引き戻してはくれません。
しかし、それが本当に最後まで、肉体の死のあとの最後の最後まで貫かれることなのかどうかはわかりません。
わたしたちには知るよしのないことです。
もっとも、それは知ることができないだけでなく、わたしたちが知るべきことでもありません。
なぜなら、滅びへの恐怖でもって私たちの心を神さまへムリヤリに向けさせるのは、わたしたちからの自発的な愛を望む神さまにとって本意ではないでしょうし、だからといって、もしアガペーの神さまがわたしたちみなを最後には全部救ってくれるとなれば、弱くおろかなわたしたちは絶対に、自分を甘やかすに決まっているからです。