神の国ために子を捨てた者は

まじめな教義・聖書の話

神のことばの難しさ

時に混乱させる聖書 

キリストの言葉って、たまによく意味が分からないときってありませんか?
 わたしはあります。子供のとき「神以外を父と呼んではならない」と聞いてショックを受けたのを皮切りに、常にキリストの言葉は謎をはらむものでもありました。
 さすがに今は「神以外を父と…」で混乱はしませんが、大人となった今でも、なんでこんなことおっしゃったのかな?と思うような聖書の箇所は多くあります。
 でも、考えてみれば、いくら神が人間のところまで下りてきてくださって人間の言葉で説明なさったとは言え、わたしたちより無限に優れた存在である神のことばを簡単に理解できないことは当然です。

教会のたえざる挑戦

 そんな神からのメッセージである聖書の解釈は、教会の何世紀にも渡る努力の結果かつこれからも続く挑戦でもあります。
 能力的にもアクセスできる資料的にも(そしておそらく霊的にも)きわめて限定された私たちが、聖書が理解できないときにそこで投げ出すのではなく、神のことばのより深い理解へと近づくために教会の指導を求めることは重要かと思います。
 今回は、こうした思いから、しばしば誤解をもたらす聖書の箇所を一か所取り上げて考えてみたいと思います。

神のために子を捨てる?

神さま>子供?

キリストの言葉にこのようなものがあります。

「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てたものは誰でも、この世でその幾倍もの報いを受け、来たるべき世では永遠の命を受ける」(マタイ19.26、マルコ10.28、ルカ18.29)

これをこのまま素直にとることに違和感がある人も多いのではないでしょうか。
 もしくは「わたしの信仰が薄いからだろうか、いくら神さまのためでも子供を捨てることなんてできない…」と、悩む人もおられるかと思います。
 一方で、これを意図してかせずにか、本当に文字通りの実行に移す人もごくまれにおられるかもしれません。
 生前のマザ―テレサは、よく「まず家族を大事にしましょう」というようなことを言われていました。そこには自分の問題のある子供や家庭から逃げてマザーの施設でボランティアをするような人がいたという背景があったようです。

ボランティアは良いけれど

 こうしたことはマザーテレサの施設のみではないでしょうが、マザーが書かれていた話のなかに象徴的なものがありますので、それを紹介したいと思います。
 マザーテレサの会のシスターたちが、路上で倒れている若者を助けたことがあったそうです。彼はまだ若くドラッグやなにかにおぼれていました。家族はとたずねたら彼は言いました。「親はぼくを見たくはないんだ、髪を染めているし、タトゥーも服装も彼らの好みではないからね」
そして、そんな彼の母は人助けに熱心なボランティアであったそうです。

 そういう事態になるまでには、その母親も苦しんだのだと思います。ですから、その母親の人生を知らずに一方的に責めることはできません。ですが、「神のために子を捨てる」という聖書の箇所がその行動の正当化に使われるとしたら、それはとても残念なことです。
 自分に反抗し傷つける難しい子供の世話をするより、「ありがとう」とばかり言ってくれる関係のない他人の世話をするほうが、場合によっては楽なこともあるのかもしれません。
 それはときに実際の隣人を愛することよりも、普遍的な人類愛を説くほうが楽なことがあるのと似ているようにも思われます。
(そういえばジョン・レノンの歌詞に「博愛主義を説くけれど、僕は人間が嫌いなんだ」というものがありました。)
 しかし、やはり、このように普段の人間関係がないからわだかまりもない、つまりは許す必要も許される必要もない人を「愛する」方が一見楽に見えるとしても、それは本当の愛とは少し違うかもしれません。
なぜなら、愛することと許すことはイコールと言えるくらいセットのものだからです。
 もちろんこうしたボランティアの善行もよいのですが、やはりまず第一はわたしたちに与えられた身近な人、つまり家族、友人、近隣の人などであるべきかと思います。
 そして、その延長でいつしか隣人が広がっていき、結果として見ず知らずの人までもを良きサマリア人のように助けることができれば、それが一番自然な隣人愛なのではないでしょうか。

神のため子を捨てるの意味

教会はなんと? 

 では、この「神の国のために、家、妻、両親、子供を捨てる」の本当の意味はどういったものでしょうか。
 教会は一般に、これを「人間的な情に流されて、本当に大事な神の教えをおろそかにしないこと」というふうに教えています。
 例えば、アブラハムは自分の子イサクを神への捧げものとせよとの神の命令に従おうとします。(直前に神が止めます。)
 このアブラハムの強い信仰は神から大変ほめられます。
 この場合のアブラハムが受けた「神からの命令」というのが現代に生きる私たちにはピンとこないのですが、
これは、たとえば「人類益にとって必要な措置の最たるもの」というようにいいかえることができるかと思います。
 現代の実際の人生において、そこまで完全に正しいと言い切れるものはおそらくありませんので想像がしにくいのですが、
しいて言えば、数多くの人命と自分の子供のいのち、どちらを優先するべきか、
もし自分の子供を殺さなければ人類が滅亡するという時、どう行動するべきか、こういう究極の問いが、アブラハムに与えられた命令に近いかもしれません。

現代で例えれば

 そこまでの究極の選択でないとしても、例えば、わたしに子供がいて、その子供が何か罪を犯したことをわたしが知ってしまったとします。警察に捕まれば死刑になるかもしれない。
 このとき、人間的な情に流されて神の教えをおろそかにするとは、子供を警察から隠したり、子供の犯罪に何も気づかないふりをすることだとすれば、
一方、神を優先するとはその逆で、子供を自首するように説得したり、苦しみつつも警察に連絡したりすることです。
 これが、「神の国のために子供を捨てる」が示している態度だと言えるでしょう。
 そして、神の教えのために、子供の「この世的な幸せ」は閉ざしてしまったけれど、本当の意味で子供も救われるのは後者です。
 ですから、神を愛することとは、子供を本当の意味で愛することと同じで、そこに優先順位は本来ありえません。
 しかし、わたしたちは人間的な子供への愛のほうを優先してしまいがちです。なので、あえてそこを注意されたのだと思います。

結局愛は同じ

 このように、わたしたちはどうしても人間的な情で目が曇ってしまう時があります。
だから、子供より兄弟より両親よりも神、と聖書はこうした強い言葉で私たちに警告したのでしょう。
 しかしそれは、子供をこの世の幸せからは少し遠ざけてしまうとしても、本当の意味ではむしろ子供を神という最も強い味方にまかせることです。
 ですから、神への愛を優先することは、本当は一番子供を幸せにすることです。
 神を愛することは、子供を愛することであり、隣人を愛することであり、他人を愛することです。
 ですから、この聖書の箇所の言わんとすることは、現世的な情に流されることなく神への愛をしっかり持つことが大事だということかと思います。

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