こんにちは。
今回は、第四戒「あなたの父母を敬え」です。(多くのプロテスタントなどでは第五戒です。)
実は、これについては、以前にもこのブログでまとめたことがあります(「親を敬え」)。親による虐待などを考えた時、この掟は、ちょっと理不尽に思えるだろうと思ったからです。
今回も、同じような内容になってしまうかと思いますが、せっかくですので、また書いてみたいと思います。
出エジプト記の個所
さて、十戒のうち、一戒から三戒までは、「神に対する戒」でした。
そして、この四戒から、「隣人への戒」に入ります。
(もちろん、神を愛することは隣人を愛することでもあるので、本質的にはそう違わないかもしれませんが。)
さて、第四戒について、出所の出エジプト記は、どのように言っているでしょうか。
あなたの父母を敬え。
そうすれば、あなたはあなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
(出エジプト記20)
参考までに、他の隣人への戒(第五から第十)の部分も、見てみます。第四の「長く生きることができる」のあとに、こう続きます。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。
ここで気づくことは、隣人編の他の戒(第五から第十)の場合は、戒めだけが端的に書いてあって、それを守った時にどうなるかなど書いていないのに、この父母に関する第四戒のみ、守ればどんな幸いがあるか書いてあるということです。
なんだか、わざわざこの戒の重要性を強調しているような感じです。
ファリサイ派や律法学者たちと、キリストの対話
福音書でも、キリストが、親に対する問題について言及されている箇所があります。
以下、その抜粋です。
(イエスは答えて言われた。)
「なぜあなた方は、自分たちの言い伝えのために、神の掟を破るのか。
神は、「父と母を敬え。父または母を罵るものは死刑に処する」と言われた。
しかし、あなた方は言う。
『父または母に向かって、私のものであなたの役に立つものはすべてコルバン、すなわち神への捧げものとしますと言えば、もうその人は父または母に対して、何もしないで済むのだ』、と。
こうしてあなた方は、自分たちの言い伝えによって、神の言葉をむなしくしている。」
(マタイ15.3、マルコ7.1)
これはつまり、ファリサイ派や律法学者たちは、「単に自分が楽をしたいという理由で、父母への孝行を拒否することは許されないが、もしその孝行するだけのお金や労力を、代わりに公へ寄付するというのであれば、父母へ孝行しないことも許される」ということを認めていたということです。
父母へあげるくらいなら他に寄付したほうがいい、だなんて、よほど父母との関係が悪いケースでしょう。自分は何も得をするわけではありませんから、そこにあるのは父母への心的な要因のみだと思います。このような制度を利用するのは、父母からの虐待を経験し、大人になって父母に孝行するだけの生活基盤を持てた子供くらいしか思い付きません。
これは、(宗教的に正当な考え方がどうかはともかく)、法的には妥当な考え方だという感じがしないでしょうか?
実際、このようにファリサイ派や律法学者の言うことのほうが、現代の私たちの感覚に近いのではないかということも多いのです。
しかし、キリストはあえて言います。
「あなた方は、自分たちの言い伝えによって、神の言葉をむなしくしている」と。
神の言葉は、私たちの理解を超えます。
しかし、それを理解できないからと、自分の浅さとその言葉の深みを想像することもなく、安易に自分たちの考えに合わせて修正してしまうならば、それは神の言葉からその真髄を取り除いて、むなしいものにしてしまうように思われます。
他にも、私たちに理解できない神の言葉は多々あります。
例えば、「あなたの敵を愛せ」。
「クォ・ヴァディス」(ノーベル賞作家シェンケビチによる小説)に出てくる若きローマ軍人ヴィニキウスは、それを聞いて最初は「バカバカしい、戦場で敵を愛していたら殺されてしまう」と、あきれて失笑しました。
それは、文化や時代にかかわらず、常識的な考え方です。
しかし、同時に、矛盾するようですが、人間は、人間を超えた神を認識する存在です。それもまた文化や時代を問いません。そして、それによって、人間は、人間の常識を超えたものをも認めることができます。
実際のところ、この「あなたの敵を愛せ」は、常識を否定するものではなく、それを超えた次元において、人間を真の人間たらしめる新しい掟です。
同様に、この「あなたの父母を敬え」は、そうした人間の常識をあえて超えることを求める神の掟とは言えないでしょうか。
なお、ここで「敬え」とされている語は、実際には、「尊重する」というような意味のようで、人間性などに対して通常使われる「敬う」「尊敬する」というのとは少しニュアンスが違うようです。
そして、これを守れば、「あなたが幸せになる(あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる)」のです。父母が幸せというよりも。(当時、長生きは、恵みと幸せの象徴でした。)
この掟を守ったことで報酬を受けるのは、親孝行してもらう親ではなく、この掟を守った「あなた」ですから、つまり結局のところ、この掟は父母のためではなく、あなたのための掟なのです。
父母を、父母が自分にしたように軽く考えることは、自分の幸せから結局遠くなるということなのかもしれません。父母への恨みつらみの気持ちを超えることで、自分の子供に対して、より良い対応ができるということかもしれません。
具体的に何がどうなるからあなたが幸せになるのかはわかりませんが、とにかくそこには、私たちの常識を超えた深い意味があり、ですから、あえてキリストはそうした「人間の考えで神の言葉を曲げる危険性」を強く指摘されたのではないかと思います。
今日も読んでくださって、どうもありがとうございました。
コメント