十戒より。第一戒「わたしはあなたの主なる神。わたしのほかに神があってはならない」

まじめな教義・聖書の話

 神の十戒とは、出エジプトを果たし、イスラエルの民がシナイ山まできたとき、モーセをつうじて神から授けられた10の掟のことです。
 十戒は、キリスト教の宗派によって少しずつ違う所もあるのですが、このブログでは主にカトリック教会で採用されている十戒について扱いたいと思います。

十戒

まずは、十戒を確認します。

1,わたしはあなたの主なる神である。わたしのほかに神があってはならない。
2,あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3,主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4,あなたの父母を敬え。
5,殺してはならない。
6,姦淫してはならない。
7,盗んではならない。
8,隣人に関して偽証してはならない。
9,隣人の妻を欲してはならない。
10、隣人の財産を欲してはならない。

以上です。
 これはカトリック教会とルーテル教会で採用されている十戒です。正教会・聖公会・その他多くのプロテスタントにおいては、少し違います。

 正教会・聖公会・プロテスタント(ルーテル以外)においては、第一の「唯一の神である」ことと、第二の「神の名をみだりに唱えない」ことの間に、「偶像を作ってはならない」という項目が入り、そのためその後の内容は一項目ずつずれ、代わりに第九の隣人の妻の項がなく、しかし最後はカトリックと同じ第十「隣人の財産を欲しない」で終わります。

 第一戒と第十戒が同じなだけに、途中の番号がずれていることに気づかないこともあると思います。
 しかし、例えば、カトリックの第六戒は「姦淫してはならない」なのですが、他の宗派では「殺してはならない」ですので、これを知らずに会話をしたら、ものすごいすれ違いが起こるかもしれませんので、注意が必要です。

 さて、今回は、第一戒を見てみます。

第一戒、わたしはあなたの主なる神。わたしのほかに神があってはならない

 まずはこの第一戒の元となった旧約の文章を見てみたいと思います。(出エジプト記20)

私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像もつくってはならない。
上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形もつくってはならない。
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。
私は主、あなたの神。
わたしは熱情の神である。
私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。


この部分が、第一戒のもとになっています。
 カトリックの十戒では、像については独立した項目としては述べていませんが、実質「わたしのほかに神があってはならない」というこの第一戒のなかに、「他の像を作ってはならない」の考えが含まれているとされます。
 しかし、他の宗派では独立して第二戒としているくらいですから、この「像」が示すものははきわめて重要です。ですので、まずは、この「像」についてみてみます。

いかなる神の像も拒絶すべし(他の像を作ってはならない)

狭義の偶像崇拝

 ここで神の像というのを、彫刻だとか絵画だとかという意味での像とのみ捉えることは、少し短絡的にすぎるかもしれません。
 もちろん、どんなに優れた芸術作品であっても、像は像に過ぎませんから、もしその像を神のように扱うとしたら、それこそ偶像崇拝、いわゆる「狭義での偶像崇拝」であり、危険です。

 しかし、私達には想像力というものもありますから、十字架やキリストのご像を仰ぎ見ることで、その生涯を思い出す、ということもあり得ます。
 そういう想像力を使った祈りのための一つの道として、十字架やご像を大事にするというのもまた、自然なことです。
 そういう考えで、カトリックでは、宗教的な彫刻や絵画などを否定しません。
 これは、カトリックが偶像崇拝を認めているというのではなく、祈りや観想に役立つということにおいて、十字架やご像、絵などを大事にしているということです。

 思うに、日常生活でも、私たちは、大切な人の写真などを大切に取っておいたりします。そして、もしそれがあえて誰かから破られたり踏みつけられたりしたら、(その大事な人本人が傷つけられたわけではなくとも)、私たちは傷つき、怒りを感じます。
 ですから、像や絵が神そのものというわけではなくとも、神を描いたものである以上大事に扱うことは、偶像崇拝とは違うけれども、自然な態度と言えるかと思います。

広義の偶像崇拝

ラテラノ公会議の否定神学

 さて、広義の偶像崇拝について考察する前に、一つの重要な教義を確認する必要があります。第四ラテラノ公会議(1215年)による、否定神学の教義です。
 すなわち、「創造主と被造物の間にいかに大きな類似性があろうとも、両者の非類似性の方がつねにはるかに大きい」というものです。

 ですから、どんな被造物であっても、それは神の代わり(神の像、偶像)にはなりえないことになります。
 それが、たとえどんなに神と共通した善を持つように思われる優れたものであっても、です。

イデオロギー、理想、思想の限界

 神の像の代わりに置きたくなるような「優れた被造物」には、どんなものがあるでしょうか。

 たとえば、助け合いの社会とそれを実現するための理論。人を惹きつけるイデオロギー、思想。より良き社会にするための共通善。
 こうしたものは、確かに極めて優れたものであり、人類の良心と言うこともできます。
 時に、私たちは、神などという不確かなものの代わりに、こうしたものに人生をかけたいと思うことがあります。
 しかしながら、それを人生の第一の希望、すなわち神の代わりにすることはできません。

 なぜならば、どんなに優れたものであっても、神と比べると、その間の類似性よりも、非類似性のほうがはるかに大きいからです。
 それにもかかわらず、それが神の代わりとしておかれるならば、それはいずれ荒廃をもたらします。(もちろん、そうした理想じたいは個々人の人生にも、社会にも、常に必要ではあるのですが)。
 現代の私たちは、優れた哲学であり政治的イデオロギーでもあった共産主義のもたらした結果からも、それを感じ取ることができるのではないかと思います。

富や技術、知識への傾倒

 また、神の像が、富や科学技術といった像に置き換えられることもあります。これもまた、偶像崇拝の一形態です。
 もちろん、私たちは通常、本当にお金や技術を文字通り神仏のように拝む、という仕方での偶像崇拝はしません。しかし、お金や技術を人生に必要な第一のものと考える、という仕方での偶像崇拝は、いつの世にもあり得ます。

 モーセがなかなか帰ってこないので、不安になった民たちは、黄金の牛を作って奉るという偶像崇拝に陥っていたということですが、これも、本当に文字通り自分たちが作った牛の像を「神」と考えて拝んでいたというわけではないかもしれません。
 それよりも、指導者不在の不安の中で、黄金という富や、家畜という当時とても貴重だった財産に人生の希望をおくようになった、と象徴的に捉えた方が、同じ人間としてしっくりきます。

 富、技術、知識、そして思想やイデオロギーといった、人を惹きつけるあらゆるものが、神の代わりの偶像、すなわち人生の希望を置く偽りの礎となり得ます。しかし、それは決して真の救いをもたらすものにはなりません。
 ですから、こうした広い意味での偶像崇拝こそが、神の像の禁止という掟によって真に禁じられているものと捉えるべきではないかと思います。

「私はあなたの主なる神。私のほかに、神があってはならない」の意味するもの

 さて、神の像の他に、この第一戒の示しているものは何があるでしょうか。以下で見てみます。

全能性と唯一性

 まず、「他に神があってはならない」ということは、神の唯一性、ひいては全能性とも結びつくかと思います。
 もし全能の神が二者以上いるとなると、それらの神が対立したらどうなるかという問題が出てきてしまうので、神の唯一性と全能性は切り離せないものです。
 これは、一神教であるユダヤ・キリスト教にとって、重要なことです。

「わたしとあなた」という関係

 神は、モーセに「わたしは主、あなたの神」と述べています。
ここには、人格と人格の対面があります。相手が私を認識し、私も相手を認識しているという関係です。それは、一方的なものではなく、相互の関係です。

 ニュー・エイジなど、新しい宗教性の流れも近年見られます。例えば、特定の宗教によらず、しかし「ハイヤーパワー」として何らかの超越した存在を認めるなどです。
 しかし、モーセに対面された神は、「あなたとわたし」の関係を、人間と持たれる方です。

 そこには、対話があり、一対一のお互いがお互いを向いた関係があります。その点で、単なるハイヤーパワーの認識とは異なります。

他宗教の否定?

 また、この「私のほかに神があってはならない」が、時に他宗教の否定ととらえられることもあるようです。
 論じにくい問題ではありますが…、、しかし、それは少し違うかもしれません。

 同じ出エジプト記のなかで、神は、モーセからその名を尋ねられた時、「わたしはあるという者だ」と答えられました。
名前として、名詞ではない言葉を答えられた神。

 私たちは、自分たちが理解できるように理解しなければならないので、その言葉(私はある=ヤーウェ、ヤハウェ)は今や名詞のような感じになってしまいました。それは私たちの限界ですから、仕方がありません。
 が、思うに、神という存在は、他のどんな被造物とも違って、そもそも私たちが私たちの概念で捉えることができない存在であり、また私達が表現できない普遍性をもった存在だということを、この答えは示しているのではないでしょうか。

 一方、多くの優れた他の宗教は、本質的にキリスト教と極めて似たことを説いています。仏教もイスラム教も、その教えの根源は、きわめて近いのです。
 それなのに、ユダヤ・キリスト教と本質的に極めて近いことを教えている他の多くの宗教を、「私はある」と答えられた神から与えられた掟によって排除することは、どうも的がはずれているようにも思われるのですが、どうでしょうか。

 聖アウグスティヌスは言います。
「私たちが理解しつくせる方であれば、それは神ではない」
 ですから、神が真に何者なのか、どういう存在なのか、私達に理解できない以上、他宗教で語られている神を否定することも、簡単にはできないように思われます。

 もちろん、わたしたちキリスト者にとっては、人間となられたキリストという、私達にもより理解がしやすいもう一つの新しい像を与えられたわけですから、キリスト教は2000年前に生きたこの特定の人物によっています。その意味で、汎宗教論的に捉えるべきものではありません。
 しかし、少なくともこの十戒を「ユダヤ・キリスト教以外の宗教の禁止」とみるのは、少し早急なのではないかと思われるのです。

今日も、読んでくださって、どうもありがとうございました。

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