気の毒なイチジクの木
こんにちは。
福音書の中に、実のなっていなかったイチジクの木についての記述があります。
イチジクの木を見つけた空腹のキリストが、実を期待して近寄るも、実がなっていませんでした。そのため、この木を呪い、枯らせてしまうのです。
この時のキリストは、救い主というより暴君ネロみたいですけど、どうなんでしょう。
しかも、実がなってなかった理由が、季節じゃなかったから、というのだから、枯らされたイチジクからしたら本当にいい迷惑です。
今回は、これについて少し見てみたいと思います。
短気なキリスト?
問題の個所を聖書から抜粋します。
翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
葉の茂ったいちじくの木が遠くに見てたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、葉のほかは何もないことに気づかれた。
いちじくのなる季節ではなかったからである。
イエスはその木に向かって言われた。
「今後、いつまでも、だれもお前の実を食べることのないように。」
弟子たちはこれを聞いていた。
(マルコ11章12~14)
(そして、実際次の日にそこを通りかかると、そのいちじくの木は枯れていました。)
ちなみに、哲学者のラッセルは、この聖書の個所から、「賢さでも徳という点でも、イエスはブッダやソクラテスに劣る」と言ったといいます。
確かに、これを短気とか身勝手とかととることは簡単ですが、(というか、常識としてはそうとしかとれませんが)、しかしここはキリストです。
なにかの象徴か、譬えかと疑ってみるのもありではないでしょうか。
そこで、この話のバックグラウンドにあると思われる事柄について、調べてみたいと思います。
いちじくの木の生態&旧約聖書での位置づけ
生態
まずは、イチジクの木の身のなる時期などについて確認してみます。
まず、3月ごろに緑色の実をつけ始めるそうです。(熟しておらずとも、この頃から食用可)
そして、その後、4月頃になると葉を茂らせ始めます。
そして、5月~7月に緑の実は熟して、収穫の時期を迎えます。この緑の実のほうを、夏イチジクと呼ぶこともあるそうです。
その後、秋イチジクと呼ばれる実がなり(いちじくの旬は年二回)、これの収穫は8月~10月頃だそうです。
ちなみに、日本でも両方のイチジクが購買可能ですが、夏イチジクの収穫の時期が日本では梅雨や台風の季節でもあるため流通量が少ないとのこと。ということは、私たちが食べるイチジクって秋果のものが多いのでしょうね。
そして、キリストがいちじくの木を見つけて立ち寄ったのは、過ぎ越しの祭りの頃ですから、3月~4月ということになります。
その時すでに木は葉を茂らせていました。
まだいわゆる”収穫期”ではないものの、葉を茂らせていたということは、少なくとも既に実をつけていなければなりません。
いちじくの木の成長の順序として、一応食べられる実→葉が茂る→実が熟す、というステップのはずだからです。
ですから、このいちじくの木は、実がなっていないのに葉は豊かに茂らせていたという、ちょっと見栄っ張りの木だったようです。
旧約においてのイチジク
さらに、旧約においていちじくの木は、約束の地の産物の一つでもありました。(申命記8;8)
イスラエルの民族が神に導かれてたどりつく所は、「小麦、大麦、ブドウ、いちじく、ザクロ、オリーブと蜜の地」であったはずで、これらの食物はその象徴としても使われていたのです。
またさらには、創世記において、罪をおかしたアダムとエバが自分たちが裸であることに気づいたとき、イチジクの葉を腰に巻いたとされます。(でも実はいちじくの葉って、ギザギザでとても体を隠せるものじゃないのです。それを見た神様が、皮で作った衣をサッと着せてくださるという…。)
そうしたことから考えるに、イチジクの実とは神に従っていって収穫できる豊かな実りの象徴であり、イチジクの葉は人間がなす行動(しかもしばしば不完全な)を表すように思えます。
となると、このイチジクは良いとこがない感じです。
葉っぱだけ茂らせて、肝心の実はないなんて、本当に見掛け倒しといいましょうか。
もっとも、実が熟す前には葉が茂らなければいけないというのもまた象徴的で面白いです。
なんだか、神の業の成就には、どんなに不完全であっても私たちの働きもまた必要なことを表しているようです。
神様一人でなんでもできるはずなのに、あえて私たち人間との共同作業にされているんですね。
本当にキリストが呪ったものは?
さて、この話を考える材料がそろったところで、さっそくその意味を考えてみたいと思います。
キリストが怒ったのは、単に実をつけていなかったからではない。
葉を茂らせていたのに実をつけていなかったから。
そして、イチジクの実というのは、単なる食べ物であると同時に、神の導きと人間の努めによって与えられる結果であり、特に神の恵みの結果を表すと言えます。
こうしたことから、自分の人間的な行動のみでそれを誇り、本当の実をなしていない私たちの状態をキリストが叱責されたと考えていいかと思います。
またさらに言えば、この個所は伝統的には「当時の律法学者や大祭司たちの偽善」を示していると言われます。
外側は豊かに葉を茂らせて繁栄しているように見せているが、本当の実は結べていない当時の律法主義的ユダヤ教へ、キリストが厳しく警告しているというものです。
過ぎ越しの祭りを控え、ということは自身の受難を控えていたこの時期における、強い神の怒りを表したドラマチックな出来事の一つです。
もっとも、当時の祭司たちによる偽善的な社会は、一応歴史としては過ぎ去りましたが、それと本質的に変わらないものは、いつの時代にも生まれてきます。
大祭司や律法学者とは実に私たち自身でもあり、この教訓を自分と関係がないものと考えることは危うく思われます。
最後に別の個所からではありますが、キリストの言葉を引用して締めくくりたいと思います。
「(あなたたちは)『もし私が先祖の時代に生きていたとしても、預言者の血を流す側にはならなかったであろう』などと言う。
こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。」
(マタイ23章30~32)
読んでくださってどうもありがとう。
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