神の存在を証明できるか?
幻か真実か
神さまの存在は信じる人にとって生きる希望です。
ですが、それは人間が作り出した幻の存在ではないか、と考える人もいます。強く生きていくための美しい幻想だとか、つらい現実から逃れるための麻薬だとか。
そうした考えは、信じている人にとっても、また信じたいと望む人にとっても、身近なものでもあります。信じたい、信じたいが、それは本当なのだろうか?と。
幸せな幻想かもしれないと思ってしまっている以上、信じているふりをしても、それによって心が休まることはありません。本当の生きるよりどころにはならないからです。
信じるために、奇跡を望むこともあるかもしれません。でも、それもおそらく本当の解決にはなりません。なぜなら、聖像が動いても、神の声を聴いても、自分の頭がおかしくなったのではないかと疑うことが可能だからです。
論理としての無神論の正当性
そもそも、神が私たちの能力を超えた存在だとするならば、私たちの側からそれを完全に知覚するのもそもそもムリなのではないでしょうか。
せいぜい「神の不存在を証明することはできないから、いないと断言はできないが肯定もできない」という無神論が人間の論理としては誠実なところです。
実際、こうした考え方をとっていた哲学者で数学者でノーベル賞受賞者でもあるバートランド・ラッセルは、「あなたが死んだ後に神がもし存在するとわかったとしたら神になんと言いたいか?」と聞かれたとき、「なぜもっとあなたの存在の証拠を下さらなかったのですか、と言います」と答えました。
存在の証拠をどの程度もらえれば私達人間がそれを信じるのか、そもそも我々を超えた存在を知覚するための証拠とは何なのかという問題もありますが、ともあれ、これは人間ラッセルの切実な神への訴えであったのでしょう。
こんなにも困難なこの命題、もし誰かが「ここに神の存在の証拠がある」と言ったなら、それはまずイカサマです。
「愛」が店頭に売っていたら、それはまず偽物だというのと似ています。(これは「愛」の定義にもよるのでしょうが)。一般に、私たちは、そもそもお金や利得で引き換えられないものを愛と呼ぶのであり、人間を超えているものを神と呼ぶからです。
では完全に退けるか?
では、そうなると、私たちに神の存在を知覚することはできないから、あきらめるしかない、という結論になります。
哲学的には、それが公平な態度と言えましょう。それどころか、むしろ、私達人間は自分の偏狭な想像力の中で神を勝手に動かしてしまうことすらあるのですから、「神の存在も不在も証明できない」というニュートラルな状態を一歩進めて、「神の死」を宣言することにすら、ある種の誠実さがあるように思われます。
でも、それでもなお、です。そんな自分の頭の理屈を超えて、私たちは神を求めてしまう時があるのではないでしょうか。
この世界がすべてなら、とても生きていけない、我々を超えた正義や慈悲は存在しないのか、と。それが人間というものかと思います。
そして、そんな頭と心の不一致はとても苦しいものです。
そんなとき、神の存在を100%証明しようとするとそれは不可能ですので、絶望するか、刹那の快楽にすがって残りを耐えるほかなくなります。
ですが、そこまで欲張らず、「もしかすると」とか「たぶん」とかという程度までなら、案外可能なのではないでしょうか。そして、それは意外と無視できないものなのです。
以下、それについて少し書きたいと思います。
キリストは少なくとも狂人ではない
C.S.ルイスの唱えたキリスト教護教論からの抜粋です。
思うにキリストが歴史的に実在の人物であったことに争いはまずありません。問題は彼が神の子であったか否かです。
ここで、神の子であったかどうかは証明できないとしても、少なくとも偉大な哲学者であったとは言えるでしょう。
一方、自分を神の子とする場合、考えられる可能性は愚かな狂人であるか、事実であるかです。が、少なくともキリストは狂人ではありません。
とすれば、事実である方の可能性が残るのではないか、という理屈です。
それなりの説得力はあるのではないでしょうか。
旧約からの預言を実現する難しさ
また、旧約聖書は口伝の時期も含め千数百年にわたって作られました。その中には生まれてくる救い主について多くの預言が書かれていて、キリストはその通りに生まれ、生き、そして亡くなりました。
救い主でなくても、その預言を知っていれば、それに沿って生きることはある程度は可能かもしれません。
ですが生まれてくる場所はどうしようもないはずですが、キリストは預言通りベツレヘムで生まれていますし、ヨセフの血筋などもちょっと難しいのではないかという感じがします。
弟子たちの変化と殉教
さらにまた、キリスト磔刑の後、弟子たちはユダヤ人を恐れ家にカギをかけて隠れていましたが、復活したキリストに会ったとされる後には別人のようになり、多くが殉教しました。それは史実の通りです。
この短期間での変化は、実際になにか死をも超えるものを体験したと考えなくては説明が尽きません。
「たぶん」の重さ
以上、いくつかの護教論の論点を書きました。すべてが、ちょっとなるほど、とは思わせるとしても、完全な証明とは言えません。
しかし、こうした小さな「もしかしたら」とか「たぶん」とかを積み重ねれば、否定するにもそれなりの労力が必要になってきます。
ベネディクト16世は、その主著の一つ「キリスト教入門」にて、この「おそらく」の重さを述べています。そう、鉄の護教論者と思しきラッツィンガー教理庁長官ですら、それを断言できないことを認めているのですが、でもその「おそらく」の中にある重さは、人を神に向かってひざまずかせるに十分な恐ろしさだというのです。
そして、こうした小さな「たぶんの証明」は無数にあります。また、人によっては、聖書を味わい、神学を学べば学ぶほど、「どうもこれは普通の人間によるものではないようだ」という感覚が出てくることもあるでしょう。実際、19世紀から20世紀の初めにかけて、キリスト教に反対する人々の中で、「聖書という書物の比類ない完成度の高さ」というものは頭痛の種であったようです。(参照;グッドタイミングの死海文書)
また、無神論者であっても、数字や自然の中に神秘的な何かを感じ取るということは決して珍しくありません。実際、この世界の複雑な事柄が単純な数式で現すことのできるという事実は不思議なことで、そこには何か人間を超えたものの存在が見え隠れするような気もします。ただ、それ以上には近づけないのですが。
総じて、現代に生きる私たちは、黒か白かを求め、証明できないことは退けがちですが、同時に、否定しようと思えばそれはそれで難しいケースがあることをも見逃しているのではないでしょうか。
パスカルの賭け
と、ここまで長く書いてきましたが……、
最初に述べた通り、それでもこれらが「たぶん」を超えることは決してありません。いくら考えても、いくら探しても、神の存在という証明が完成することはあり得ないのです。
ですから、こうした「たぶん」に助けられつつも、最後はやはり自分の論理を超えた人生の決断であって、一種のカケでもあります。
物理学者でキリスト教護教論者でもあるパスカルは、「カケをするときには、最善のケースと最悪のケースを考える必要がある」といいました。
「このカケで神にかけて、神が存在しなくても、あなたに損はありません。ですが、もし神がいないことにかけて、神がいたならば、あなたは永遠の損をします」と。
あなたはこのカケにのりますか?