永遠の安息、永遠のいのち…、それは、キリストが約束してくださったものであり、この苦しみの多い有限な世界にある私たちが、切望するものです。
しかし、同時に、永遠というものは、よく考えてみると恐ろしいものでもあるような気がします。
私たちの中の矛盾
私達は、死ぬことを恐れます。ですから、通常は、どうにかして死ぬことを避けよう(延期しよう)とします。
しかし、同時に、永遠に生き続けなければならないとなると、どうでしょう。それはそれで恐怖を感じるのではないでしょうか。
死ぬのは本能的に恐れる私達ですが、それと同時に、永遠に終わりなく生き続けるというのは、恐怖であり、恵みというよりも、むしろ耐えがたい刑罰のように思われます。
つまり、人間という存在には、本来的に内的な矛盾が備わっているのです。
本当に望んでいるものは
私達は、死ぬことも恐れるし、だからといって生き続けることも恐れています。どちらかを突き付けられると、もう片方を望みますが、そのもう片方だって、真に望んでいるものではありません。
となると、私達が本当に望んでいるものは、なんなのでしょうか。
聖アウグスティヌス(345ー430)は、これについてプロバにあてた手紙の中で書いています。
私たちが望んでいるのは、ただ一つだけ、すなわち「至福な生」です。
しかし、ここでの問題は、日常的なことばで私たちが「生」とか「いのち」と呼んでいるものは、私達が究極に望んでいるそれではない、ということです。
私たちの言葉は、それをあらわすことができないのです。
しかし、私達は、私達の言葉で表せないものが「存在する」ことを知っており、故にそれを切望しています。
しかし、それは人間の存在を超えており、人間の言葉で表すことができないから、それをどう呼ぶべきか私達は知らない。近似的に、「永遠」とか「いのち」と呼ぶけれども、それらは真にそれをあらわしてはいない…。
そこで、アウグスティヌスは、「それゆえ、私達のうちには、いわば知ある無知があります」と述べます。
私たちの想像の限界、時間や場所を超えたものがあるとしたら
言ってしまえば、私たちは、死すら触れることのできない、至福な生、端的な生、まことのいのちを望んでいます。
しかし、私達がこの世で手にできるものは、すべてそれではありません。私たちが日々生きている命ですら、それではありません。
近似的に「永遠のいのち」という名で、私達の求めているものをあらわしますが、この言葉とて不十分で、「永遠のいのち」という言葉は、この私たちの知っている「命」に際限のなくなることを連想させ、混乱を生み出します。
私たちは、「それ」を完全に想像しつくすことすらできないのですが、それがあるということは知っており、それに向けて駆り立てられます。
私達が「それ」を知らないということが、あらゆる絶望を生み出しもしますし、世界に対するあらゆる試みをも生み出します。
それを考えてみるためには、おそらく自分たちがとらえられている「時間」を超え出なければなりません。
「永遠」とは、いつまでも暦の日付が続くことではなく、時間が消え、「完全な満足を感じる瞬間」のようなものというほうが、もしかしたら近いのかもしれません。
時間もなく、場所もなく、神の愛のなかに包まれるその瞬間がすべてになること、真の意味でキリストと一体になること、そうした何らかの「完全な」瞬間です。それを、私達は、真には理解できません。想像もできません。
しかし、それは、私達に理解ができないにもかかわらず、私達の求めるものです。それを求めるように、私達は創られています。
ヨハネによる福音書において、キリストはこう言います。
「わたしは、再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去るものはいない」(ヨハネ16-22)
キリストは、私たちのわからないものを、わたしたちの言葉で、伝えてくださっています。
抽象どころか、私たちの理解を超えた形而上的なものなので、それはどうしてもぼんやりとしてしまいますが、これが真実なのだろうと思います。
むしろ、正面からごまかさずに伝えようとすると、どうしても、ぼんやりと言うか、つかみどころのない、こういう表現になってしまう性質のものなのでしょう。
しかし、これが、キリスト教的希望です。
今日も、読んでくださって、どうもありがとうございました。
本稿は、ベネディクト16世回勅「希望による救い」を参考にしました。ベネディクト16世は、神学者でいらっしゃたので、こうしたことをよく題材にされ、そして説明が本当にわかりやすいです。
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