その男・ユダ

まじめな教義・聖書の話

キリストに次ぐ聖書の有名人

イスカリオテのユダ。
 クリスチャンでなくともこの名前は聞いたことがあると思います。
裏切り者の代名詞です。
 おそらく、聖書に出てくる人物のなかでキリストの次に有名なのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
 しかし、そのわりに他の弟子たちと比べて、裏切りにかかわる場面以外では
存在感が極めて薄く、ある場面にいたのかいなかったのか良くわからないようなときも少なくありません。
 ペトロなんかは自分が関係ないときでもしょっちゅう口を出しており、存在感抜群なのですがユダは正反対です。
 そしてそんな普段の生態もよくわからない人間が突然裏切る…それがまた、ユダのイメージをより不気味に、より理解しがたいものにしているような気がします。
 彼はどんな性格だったのか、若かったのか年だったのか、弟子になる前は何の仕事をしていたのか、何もわかりません。
 それこそ、どうやって弟子入りしたのかのエピソードすら書かれていないのです。
 そうしたことから、今回は、聖書におけるユダについての少ない記述を拾い出し、
その中から手掛かりを探してユダについて考察してみたいと思います。

ユダの出てくる箇所の引用

 以下、聖書でユダの出てくる箇所をあげてみます。
本当に少なく、わずか5場面で、そのうち4つは裏切り行為にかかわる描写です。
 最初は、一連の受難が始まる前にべタニアのマリアの家でキリストが香油をそそがれたとき。
 2回目は、大祭司のところへキリスト引き渡しの密談をしに行くところ。
 3回目は、最後の晩餐でのやり取りで、4回目はキリスト逮捕の場面、
そして最後はキリストに死刑判決が下った後です。
 なお、最後の晩餐のときの会話は、ヨハネとその他の福音記者とでかなり違うので、両方のバージョンを引用してあります。

場面1、「香油を売って貧しい人に施すべきだったのに」

 最初の登場です。
べタニアにてマリアがキリストに香油を注ぐ場面です。

 その時、マリアは非常に高価な純粋のナルドの香油を1リトラ持ってきて、
イエスの足に塗り、自分の髪の毛でふいた。
家は香油の香りでいっぱいになった。
弟子のひとりで、イエスを裏切ることになるユダは言った。
「なぜ、この香油を300デナリで売って貧しい人々に施さなかったのか」。
 ユダがこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、
彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
(マタイ26.6、マルコ14.3、ヨハネ12.1)

場面2、銀貨30枚受け取る

 受難への序奏です。

ユダは大祭司たちのところへ行って、
「あの人をあなた方に引き渡せば、いったいいくらくれますか」と言った。
すると大祭司たちは銀貨30枚を支払った。
(マタイ26.14、マルコ14.10、ルカ22.3)

場面3、最後の晩餐

場面3-A、最後の晩餐・3福音記者バージョン

イエスは、
「わたしと一緒にはちに手を入れた者が私を裏切るのである。
まことに、人の子は、自分について書き記されたとおりに去っていく。
しかし、人の子を裏切るその人は不幸である。
そのひとはむしろ生まれなかったほうがよかったであろうに」
と言われた。
すると、ユダが口を出して
「先生、まさかわたしではないでしょう」
というとイエスは、
「いや、そうだ」とお答えになった。
(マタイ26.20、マルコ14.17、ルカ22.14)

場面3-B、最後の晩餐・ヨハネバージョン

イエスは心が張り裂ける思いで、はっきりこう言い放たれた。
「よくよくあなたたちに言っておく。あなたたちのひとりがわたしを裏切る」。
弟子たちは、誰のことを言われたのか見当がつかず、互いに顔を見あわせていた。
…(略)… その弟子は、そのままイエスの胸元に寄りかかって、
「主よ、誰のことですか」とたずねた。
イエスは、
「わたしがパンを一切れひたして与えるものがそれだ」
とお答えになった。
それから、パンを一切れひたして手に取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
ユダがそのパンを受け取ると、その時サタンはユダの中に入った。
そこで、イエスはユダに
「しようとしていることをすぐしなさい」
と言われた。
食事の席についていたものは、誰もイエスが何のためにユダにそう言われたのか、わからなかった。
あるものは、ユダが金入れを預かっていたので、
「祭りに必要なものを買いなさい」とか、あるいは「貧しい人に何か施しをするように」とか、
イエスが言いつけておられるのだと思っていた。
ユダはそのパンを食べるとすぐに出ていった。
夜であった。
(ヨハネ13.21)

場面4、「先生、いかがですか」

 いよいよ裏切りの実行の着手です。
ゲッセマネの園で苦しみに満ちた祈りの時間を過ごしたキリストは、すすんで受難に向かいます。

12人のひとりであるユダがやってきた。
大祭司や民の長老たちから遣わされた多くの人たちが、剣や棒を持ってユダについてきた。
裏切り者は彼らとあらかじめ、
「わたしがせっぷんする人がその人だ。その人を捕まえろ」
と示し合わせておいた。
ユダはイエスに近寄り、
「先生、いかがですか」
と言って、イエスに接吻した。
イエスは、
「友よ、しようとしていることに取り掛かれ」
と言われた。
(マタイ26.47、マルコ14.43、ルカ22.47、ヨハネ18.2)

場面5、「わたしは罪のない人の血を売り罪を犯しました」

キリストに死刑判決が出たあとです。

イエズスを裏切ったユダは、イエスに対する判決を知って後悔し、銀貨30枚を大祭司や長老たちに返して、
「わたしは罪のない人の血を売って、罪を犯しました」と言った。
すると彼らは、
「我々の知ったことではない。自分で始末するがよい」と言った。
そこで、ユダは銀貨を聖所に投げ込んで去り、首をくくって死んでしまった。
(マタイ27.3)

ユダ登場の箇所からみる考察

 以上、ユダの登場する福音書の場面を引用しました。
次に、以下ではユダが登場した上記5つの箇所を個別に吟味してみたいと思います。

場面1、べタニアの香油の箇所について

会計係としてのユダ

 ここの箇所からわかるのは、まず、ユダが金入れを預かっていたということです。
要するに会計係ですね。
 そして、財布を預かる会計係というのは、まず読み書きや計算ができなければ務まらないのではないかと思います。
 この時代誰もがそうした教育を受けていたわけではないので、ユダはある程度の教養があったと言っていいと思います。
 また、お金の扱いであれば、元徴税人の頭であったマタイがプロであったはずなのに、
マタイではなくユダが会計になっているということは、ユダにはそれをしのぐほどの経験か信用があったということかもしれません。
 なんにしろ、そもそも財布を預けるというのは、能力的にも人格的にも信頼のおける人に頼むことだと思いますから、
今では一般に悪役とされるユダですが、裏切りまではむしろ他の弟子たちから慕われていたのかもしれません。

現実主義者としてのユダ

 そして、高価な香油を注いだマリアに対する「300デナリで売って施すべきだったのに」という言葉。
かなり現実的な考え方です。
 この後キリストから「この婦人を困らせてはならない」と諭されますが、これは今日にも通じる問題を提起しているように思われます。
 たとえば聖堂建設にあたって「貧しい人がいるのに、立派な大聖堂を建てるのはおかしい」 というような意見が出ることがありますが、まさにそれと同じような感じですし、
またもっと突き詰めて考えれば宗教そのものを否定するマルクス主義にもつながるかもしれません。
 もっとも、(マルクス主義はともかく)これはいつの時代も教会が直面してきた葛藤でもあります。
 (これに対しては、教会の第一の目的は社会福祉ではなく、神を愛し賛美することであるという原則を再確認する必要があるかと思います。
 もっとも、神を愛するとは隣人を愛することでもあるので、その一環として社会福祉的な行動も必ず出て来ることになります。)

 ともあれ、こうしたことを考えるというのは、ユダは、頭がよかった、のかもしれません。
 または頭でっかち、だったのでしょうか?
ユダの性質がほんの少しだけ垣間見える気がします。

彼は盗人であり… 

 さて、しかしその後には「ユダは本当に貧しい人のことを心にかけていたわけではなく」、「盗人であり(横領犯?)」、「金入れを預かっていながら中身をごまかしていた」と書かれています。
 ですが、これはちょっと不思議な感じもします。
というのも、ユダが貧しい人のことを本当に思っていたのかどうかというのは、ユダの内心のことなので、本当にそうだったとしても、どうやってそれを他の弟子たちが知ったのかわからないからです。
 ユダがそうした内心を、他の弟子たちに語る機会があったとは思えません。
 また、他の弟子たちはユダが裏切るその時までまったく気づいておらず、また裏切りのあとに合流した記述もないので、
そもそもユダの金入れや残高を弟子たちが確認する機会もなかったのではないかと思います。
 ですので、この記述は、これを書いた福音記者が想像したことか、
もしくは福音記者が読者にユダも良いところがある等と思わせないために(?)意図的に追記したことかもしれません。
 もしくは、盗人とか貧しいひとを心にかけるという文言は、文字どおりにとるべきものではなく、何か象徴的な意味があるのかもしれませんが、これ以上はわかりませんので、ここまでにしておきます。

 また余談ですが、
1デナリというのは当時の一日当たりの労働者の賃金のようです。
仮に現代の日当を1万円とすると、300デナリというのは300万円ということになります。
 300万の香油を普通に持ってきたべタニアのマリア、何者……。

場面2,銀貨30枚を受け取る箇所について

 さて、この場面ではユダが大祭司側に接触します。
もちろん他の弟子たちは、のちに知ったことであって、リアルタイムではまだ気づいていません。
 弟子たちがこの密談について誰から知らされたかはわかりませんが、
かつて大祭司側にいたにもかかわらず後に弟子たちに賛同するようになった人々も多くいましたので(その最たる者はパウロでしょうか)、そこからのルートがありえます。

 銀貨30枚ということですが、銀貨には当時複数の単位があり、この銀貨の単位が何だったのかわからないので、どの程度の価値だったのかははっきりしません。例えば、今の日本で紙幣30枚といっても、どの紙幣かによって違い、千円札の3万円から一万円札の30万円という幅がありますよね。
 同様に、銀貨30枚とはおそらく、その銀貨の種類によりますが、だいたい30万円~120万円程度だったようです。
 ただ、銀貨30枚というのは旧約聖書における奴隷一人分の金額であり、
同じく旧約聖書において奴隷でない通常の男性を死なせてしまった場合の賠償金は銀貨50枚とされていましたから、
(旧約の時代とこの時代の物価が同じだったかどうかはともかく)、
ここに旧約聖書を知り尽くしていた大祭司たちのキリストに対する侮蔑の思いが象徴的にあらわされていると言えます。

 しかし、30万から120万、これがユダにとってキリストを裏切るだけの価値のある額だったのかどうかわかりません。
 そのため、ユダは本当に金のために裏切ったのか、他に何か目的があったのではないかという問いも長く持たれてきました。
 その中でもっともよく言われるものは、
ユダには、キリストに人々の魂の救いだけでなく、もっと現実的な人々の救いをも実現してほしい、
たとえば、この世の制度的な統治者にもなってほしい、といった政治的な意図があり、
そのためにキリストに発破をかけるためにこうした裏切り行為に出たのではないか、という説です。
(これは現代で言う「解放の神学」に通じる部分もあります。)
 そうであるとすれば、ユダ的には、謙遜過ぎて世の権力を求めないキリストと、キリストのように慈悲深くて賢い施政者を必要とする世の人々のために、あえて汚れ役を引き受けるというくらいの気持ちだったのかもしれません。
 政治的意図というと突飛な感じもしますが、高い香油をみて施しすべきと考える現実的なユダならば、ありうる気がします。
 また、この後につづく最後の晩餐の際の会話におけるユダの発言もこれと整合しているように思われますので、事実はわかりませんが、この説が長くとなえられてきたことも納得です。

 さて、ともあれ銀貨30枚で交渉は成立しました。
 大祭司は全額先払いしたようです。
 彼らは、ユダがお金だけもらって逃げる可能性を考えなかったのか、
はたまた彼らにとってはした金だったのか
(そうだとしても、やはり普通はいくらかは実際に事をなした後に払う約束をすると思うのですが)、
 ユダだけでなく大祭司も結構よくわからない行動をとる一幕でありました。

場面3、最後の晩餐の箇所より

 いよいよ最後の晩餐、聖木曜日の場面です。
 聖体の制定などこの後の教会の秘跡にかかわる重要な事柄が示されるとともに、
キリストとユダの貴重な対話もあります。

3-A、3福音記者のバージョン

「わたしではないでしょう」

 さて、キリストが「わたしと一緒にはちに手を入れる者が裏切る」と言い、
ユダはわざわざ「先生、私ではないでしょう」と口を出します。
 これもちょっと不思議です。
バレていないと思ったからこんなことを言ったのか、それとも、そもそも自分のする行為は裏切りではないと思っていたのか――。
(前項で述べた「キリストと人々のための汚れ役」というふうにユダが思っていたのならば、それは彼にとっては裏切りではないわけですが。)

 とにかく、もし本当に自分の計画を成功させるつもりであるなら全く余計な一言であり、弟子たちも後に回想した時なぜユダがこんなことを言い出したのかよく理由がわからなかったのではないでしょうか。
 そして、さらにはキリストが「いや、そうだ(裏切るのはあなただ)」とはっきり返したにもかかわらず、
弟子たちはユダが裏切るとは受け取っておらず、困惑したままです。
 これは、よほどユダが裏切りから遠いイメージだったということでしょう。

「いや、そうだ」に対するユダ

 また一方、ユダはキリストから
「いや、そうだ(あなたのしようとしていることは裏切りだよ)」というメッセージを受け取ったことで、ここで考え直すチャンスを与えられたと言えます。
 しかし、ユダはそうしませんでした。
はっきり言われたのにそうしなかったのは、傲慢というほかありません。

 わたし自身、身に覚えがありすぎてユダのことを言えないのですが、
ある考えに執着し、特にそれが自分の利益のためでなく、他の人々のためになると信じ込んでいるとき、
わたしたち人間はこのときのユダのように傲慢になります。
 
 なお、一般に堕天(天使が堕落し神に逆らって地獄に落ち悪魔となったこと)も傲慢の産物であるとされているようです。
 こうしたこともあり、傲慢はカトリック教会における大罪のNo.1です。

ユダに対するキリストの言葉

 そして、そのような罪を犯す決意を持っているユダに対するキリストの言葉は、大変興味深いものでした。
「人の子(キリスト)を裏切るその人は不幸である、その人はむしろ生まれないほうがよかったのに」と付け加えられるのです。

否定した部分はどこか

この言葉は大変冷たいように思われます。
 が、旧約聖書では、人生は母の胎から出るずっと前から始まっているとされてきたことを確認すると、ちょっと印象が変わるのではないでしょうか。


「わたし(神)は、あなたを母の胎内に形づくる前からあなたを知り、
あなたが母の腹から出る前から聖別していた。」

(エレミヤ1:5)

「主は、生まれる前からわたしを召し、
母の胎内にいるときから私の名を呼ばれた。」

(イザヤ49:1)

 旧約聖書のなかにこうした表現は無数にあるので、すべてを挙げることはできません。
 そのくらい旧約聖書の世界観ではこれが当然のことだったのでしょう。
 人は生まれる前から、神によって存在を認められ、愛されているというのが旧約の考え方であり、
これはそんな旧約の書物をよく知るキリストによる発言です。
 ですから、キリストは、ユダがオギャアと生まれた後の人生は否定したのかもしれませんけど、ユダの存在自体を否定したというわけではないと思います。
(それはそれで切ないですが)。

神の計画への傲慢と従順

そして、また、ユダを生まれさせたのは神さまですから、
 これはある意味でキリストが神さまに抗議したいような気持になっての発言だととることもできます。
 なんで哀れなユダにこんなに不幸な役割を担わせるのか、
実際的な罪を犯す機会をもたない母の胎にいるときのままにしてやれなかったのか、と。
 しかし、キリストはユダや堕天使と違い、
そこで自分が神に代わり物事のコマを進めようとはなさいませんでした。
 この後、ゲッセマネでもキリストは「この受難を取り除いてほしい」といった願いを神に吐露しますが、
同時に「わたしの望みではなく、あなたの望みのままに」と付け加えられています。
 神の計画をを変えてほしいと願って受け入れられずとも、
では自分がそれを変えようという傲慢ではなく、あくまでも従順を選ばれるのです。

 キリストに、ユダをこんな大きな罪を犯すことから救ってあげるために神の計画に逆らう(たとえばユダが自分を大祭司たちに引き渡す前に自分から捕まりにいくとか)という選択肢などまったくなかったのでしょう、
「しようとしていることをしなさい」とユダを送り出し、
ご自分は受難を待たれました。
 キリストの従順によって、ユダの傲慢の罪がいっそう際立つように思えます。

3-B、ヨハネ福音書のバージョン

 最後の晩餐の様子のヨハネ福音書バージョンについてです。
 他の福音書と重なるところも多いのですが、ちょっと違うところもあります。

あくまで疑われないユダ

 まず、キリストが裏切りの予告をしたとき、ヨハネ福音書においては、
 ある弟子(おそらくヨハネ)が、「誰のことですか?」と聞きます。
 すると、キリストは「わたしがパンを手渡すものがそれ」と答え、ユダに渡されます。
 が、他の弟子たちは、ここまではっきり言われて、ユダがパンを受け取っても(よく受け取りましたね)、
 それでもユダが裏切るとは認識していません。
 それどころか、ユダに向けて続けて言われた「やるべきことをしなさい」というキリストの言葉すら、
財布を預かっているユダに対する祭りの準備の買い出しとか施しとかといった指示だろうと考え、
みすみすユダを送り出すのです。
 本当に、ユダが裏切るとは誰しも予想しなかったのでしょうし、普段からこうした雑用を皆のためにやっていたのでしょう。

 それほどまでに、ユダには信用があったということかと思います。
 だとすると、福音書に極端にユダについての供述が少ないということは逆に不自然にも思われてきます。
 もし本当に存在感のないだけの人間だったら、ここまでポジティブな「まさかこいつではない」感はあり得ないのではないでしょうか。
 弟子たちも、ユダが口づけでキリストを裏切ったことを知ったあとには、なぜ?と自問自答し、話し合ったに違いありません。
 それでも理由が福音書に書かれていないというのは、弟子たちにも本当にわからなかったということでしょう。
 長く一緒にいながら全然わかっていなかった仲間のことをどう描くべきか。そもそも自分たちの見ていた彼は、本当の彼の姿だったのか。
 そうした思いから、あえて彼の普段の言動などを書かないことにしたのかもしれません。(特に彼の言動が模範的であったりすればなおさらのことではないでしょうか。)
 そう考えると、ユダが登場する5つの場面のうち、2~5までの4つが裏切りにかかわるものであり、
一連の裏切りが始まる前である最初の1つの場面はキリストにユダがたしなめられるものであるということも納得です。

パンとともにサタンが入る

 また、ヨハネ福音書バージョンでは、キリストがユダに渡したパンと一緒にサタンがユダに入ったとされます。
 これは、キリストから「あなたのしようとしていることは裏切りだ」と言われたにもかかわらず、
パンを受け取るという行為を通してそれをあえて受け止めたという決意こそが、
ユダの罪を決定的にしたと言っていいかと思います。
 もし、自分のしようとしている行為が裏切りではないという独自の認識を持っていたとしても、
それ自体は、ある意味能力不足からくる「過ち」「過失」という面もあったかと思うのですが、
キリストからそうはっきり言われてもなお改めないというのは、もう過失ではなく意図的な反抗になるかと思います。

 かつて、洗礼者ヨハネが、一度キリストを神の子と認めた後に、
「来るべきかた(救い主)はあなたですか、それとも他の人を待つべきですか」と
キリストに人を送って尋ねさせたことがあります。(マタイ11,2、ルカ7,18)
 これはつまり、「本当にこの方が救い主なのかな?違ったのかな?」という疑問をヨハネが持ったということです。
 それで、彼はそれを正直にキリスト本人にたずね、
キリストはそんな質問をした彼を
「女から生まれた者のなかでヨハネより偉大な者はいない」と誉めます。
 ここからわかることは、神の計画に疑問を持つこと自体は決して罪ではないということです。
 限られた能力の人間にとって、神の計画が大きすぎてわからないことは当然のことです。
ですから疑いを持つこともまた当然です。
 しかし、そのときに自分の考えのほうを優先して神の計画を変えようとするか、
それとも神にどうしたらいいか尋ね従順であることを選ぶか、
そこが重大な分かれ道なのでしょう。

 ユダは受け取ったパンを食べ(それにしてもよく胃が受け付けましたね。豪胆です)、出ていきました。
「夜であった」という最後の描写が、なんとも重く響きます。

場面4、裏切りの場面より

いよいよ裏切り決行の場面です。
ゲッセマネの園にいたキリストに、ユダたちが近づいてきます。
 接吻という一般に親愛の情を示す方法で裏切ったというのは皮肉なことにも思えます。
 ユダにとって、この接吻が全く偽りのものであったのか、それともユダなりの愛情を込めたものだったのかはわかりません。

 どこで読んだか忘れましたが、一説によると、弟子のなかに容貌がキリストに似た者がおり(ヤコブ?)
それと間違えることのないようにと接吻という手段を選んだのではないかとも言われているそうです。
 確かに当時のたいまつの明かりのみでは、夜間に離れたところにいる人をどのくらい認識できるか心もとないですね。
 もしここで兵士たちが間違えてヤコブを逮捕してしまっていたら、ユダもキリストもびっくりです。

 …不謹慎ですみません。
気を取り直して先に進みます。

場面5、悔やむユダ「わたしは罪のない人の血を売り」

後悔の理由 

さて、キリストに対する判決が出され、死刑になることが決まりました。
 ユダはそれを知って激しく後悔し、銀貨30枚を大祭司や長老たちに返して、
「わたしは罪のない人の血を売って、罪を犯しました」と言います。
 ユダは判決を知って単に心変わりをしたのかもしれませんし、
 もしくは死刑という判決になるとは思っていなかったのかもしれません。

 何がユダの後悔を引き起こしたのか実際のところわかりませんが、
 今までの現実的で冷静で用意周到なユダ像からすると、現実に死刑に直面したことによる単純な動揺による後悔ではなく、
 何か違う結果になると計算していたのに
死刑という全く違う結末になったという意味での後悔だったのではないかという気がします。
 そして、後悔したユダは、大祭司たちのところに行って自分の罪を告白しお金を返そうとします。

罪の告白

ユダは大祭司のもとへ向かいます。
 しかし、お金を返す相手としてはそれで正しかったかもしれませんが、
罪の告白をする相手としてはユダは再び大きく間違えてしまったように思います。
そこは、キリスト本人に行くべきでした。
 それが無理ならマリア様のところに行くべきでした。マリア様は、罪に苦しむ人をご自身の息子へ導く一番確かな道です。

ユダは木曜日のうちに、
ペトロのように大祭司邸の中庭からキリストに自分の声が聞こえるところまで近づくこともできたでしょうし、
金曜日ならベロニカのように、
十字架への道を歩むキリストにかけよることもできたでしょうし、
またクレネのシモンのように、代わりに十字架を担うことだってできたはずだし、
またマリア様に導かれてゴルゴタの十字架のもとに3人のマリアとヨハネとともに立ち、許しを請うことだってできたはずです。
 他の弟子たちも木曜日の時点ではキリストから全員逃げていましたし、金曜日になっても戻ってきたのは一番若いヨハネ一人のみでしたから、
もしユダが本気でそうしようとすれば、キリストに近づくことを邪魔されることなく、できたはずだったのです。
 でもユダはそうしませんでした。
許されるはずがないと思っていたのでしょうか。
重すぎる罪で、とても顔を合わせられないと思っていたのでしょうか。
それならなおのことマリア様のところにいくべきでした。
 憐れみ深いと知ってはいても、正しい父である神に会いに行く勇気がない、やったことが重すぎて謝罪の言葉も見つからない、そんなときこそマリア様です。
マリア様は、赤ちゃんのように泣くだけでも、天の父かご自分の息子にうまく伝えてくださる方だったのに…。

 代わりにユダは大祭司たちのところに行き、自分のしたことは罪だったと言います。あなたたちに協力したことは間違っていた、と。
 こうすることで、自分も死刑判決を受けられれば、ユダの気持ちはほんの少しだけ救われたかもしれませんが、
大祭司たちは断罪することすらしてくれませんでした。
 すべてに絶望したユダは死を選びます。

罪と絶望

 現実的なユダは、この罪を償う術がこの世にはないことを理解し、絶望したのでしょう。
 人間として、また現世的にはその通りかもしれませんが、神はこの現世を超えた方です。
 神は万能であり、わたしたちのどんな罪よりも大きく、そしてかぎりない憐れみを持つ方です。
 ですから、神を信じる者はある意味で、絶望することがありません。
 アブラハムという名前の意味は「絶望しても信じる人」です。
 自分では何の可能性も見出せず、絶望すべき状況にしか思われなくても、
 神はそれより大きいことを信じる人、それが神を信じる人です。
 言い換えれば絶望とは、神の大きさや憐れみを信じられなくなったときに抱く感情ですから、絶望からくる自死を罪とすることにはそれなりの理由があると言えます。
 これが、ユダのおちいった状態でした。

 そして、伝統的にユダは地獄に落ちた者とされてきました。
 今のカトリックの教義ではそう断定はしていませんが、それでも扱いが難しい問題であることに変わりはありません。
 しかしながら、その難しさにもかかわらず、人間の弱さを身をもって体験されたキリストが、その苦しみをわかってくださらないことはないのではないかとも感じます。
 神はあんなふうにユダに死んでほしくなかったと思いますが、
 でも大祭司に向かってなされたユダの告白は、きっと神の耳にも届いていたと思うのです。
 そしてそんな人間ユダはわたしでもあります。もちろん弱さを口実に彼の轍を踏むことを許してはならないのですが…、
謎な人間でありながらやはり全くの他人とは思えないところもある気がしてしまうのです。

以上でユダの出てくる箇所はすべてです。

最後に一言

 さて、長くなってしまいましたが、以上ユダについての聖書の箇所を書きだし、考察をしてみました。
 ユダの人物像を少しでも感じ取れたら、と思ったのですが、やはり難しいですね。
謎の多い人です。
 ただ、一つだけ言えるとしたら、有能で高い行動力のある人だったということでしょうか。
 何かをするときにズルズルと先延ばしにするような怠惰のイメージが全くありません。
 でもそれだけに、死を選ぶ前にあと三日待っていたら…、
 すべてがひっくり返って、罪の業すらもすべて神の計画の一部に変えられるさまを見ることができたのに…。
本当にすべてが残念です。

 こんな長い記事を最後まで読んでくださって、どうもありがとう。
忍耐強いあなたにお恵みがありますように。

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