カトリックにおける結婚・離婚

まじめな教義・聖書の話

病めるときも健やかなるときも、死が二人を分かつまで…

 カトリック信徒でもカトリック信徒でなくても、結婚するときにはふつう離婚のことなど考えていないものです。
 できることならば、一生添い遂げたい、それが一般的な感覚だろうと思います。
 しかし、人間の心は変わりゆくものであり、一度一生涯この約束を守ると誓っても守れなくなりそうなこともあるでしょう。
 そのようなときどうするか。その約束を破棄して再出発するべきか、それとも――。

 これについて、カトリックでは離婚は基本的にできないとされています。
 それには賛否両論がありますが、教会法、教義などの観点からすこし整理してみたいと思います。

カトリック法上の婚姻問題

ふたつの法

 カトリック信者にとって、従うべき法律は、通常の国家による法律(憲法、民法、刑法…など)と、カトリックの教会法という二種類の体系があります。
 国家による法律には、国家による強制力があり、それに従わないことは本人の社会生活に直接かかわる問題となりえますが、
 カトリックの教会法には、かつてのヨーロッパなどと違い、今では実質的な社会生活における強制力はなく、罰則などがあっても教会内部の事柄にかぎられます。
 普段は特にその二者の違いを意識していない信徒がほとんどかと思いますが、その二者の違いが問題になるとすれば、それはたいてい婚姻に関してです。
 婚姻に関しては、人生の重要なことであるのに、一般法と教会法で大きく異なるからです。

教会法における婚姻問題

 カトリック信者が結婚するときは通常、教会法上と民法上、両方の結婚の届けを出します。ここまでは何の問題もありません。
 問題は離婚・再婚の場合です。
日本の民法では、離婚も再婚も可能ですから、カトリック信徒であってももちろん、民法上の離婚・再婚を望めば何の問題もなくできます。
教会がそれを制限することはできません。

 が、もし教会法上の離婚・再婚を望む場合は、前婚について教会の審判を経て、前婚の絆の解消手続きもしくは前婚の無効宣言が必要になります。
 しかし、それは簡単なことではなく(というより、ものすごく難しいらしいです)、そのため現実には最初からあきらめてその手続きを踏まない人々がほとんどです。
 これがカトリックでの離婚は実質不可能といわれるゆえんです。

 ですので、先ほどの話と被りますがカトリック信者がどうしても離婚・再婚したい場合、一般にはどうするかというと、
 教会法上の婚姻関係はそのままおいておいて、民法上の離婚と再婚のみをすることになります。(というか、それしかできません)。
 しかしそうすると、教会法上では前婚が有効なまま、民法上では違う人と結婚状態にあることになります。
そうした状態は教会法上では一種の重婚または不貞の状態にあるとされ、
この状態が続く限り、聖体拝領ふくむ秘跡が受けられなくなります。(信者でなくなるわけではありません)。

 聖体拝領の制限、これは信者でない人にしたら、「だから?」という問題なのですが、信者にとっては辛いものです。
 また、これは教会がカトリック信徒に心理的な圧迫をかけることで離婚をさせないようにしているようにも見えますし、
 なにより結婚に敗れ傷ついた人に対する態度としては冷たすぎるようにも思われます。
 ゆえにこうした離婚・再婚に対する教会の規定と罰則の是非はしばしば議論に上がってきました。

離婚手続きの簡略化?

 ちなみに最近フランシスコ教皇が、こうした結婚無効の手続きのかなりの簡素化を行ったそうですが、
 施行から数年たったはずの今でも私はまだ新手続きの実例を見たことも聞いたこともなく、どうもピンと来ません。
 多少簡略化されたとはいえ教会審理ですから、敷居が高くて挑戦者が出ないのでしょうか。
 それか、そもそもかつてがものすごく難しかったということですから、それに比べれば容易、という程度のものなのかもしれません。
 概して、カトリックにおける離婚が、不可能に近かった時よりは楽になったとは言えるかもしれませんが、可能になったとはまでは、やはり言えないようです。

(追記;最近、一つの事例を聞きました。DVが絡んだものだったようです。結果がどのようになったかまではわかりませんでしたが、確かに少し容易になってきたようです。
 そもそも、かつては、バチカンまでいかなければ婚姻無効の審判を受けることすらできなかったのが、今は東京で済むというのですから、それだけでも大きな変化と言えると思います。)

カトリックにおける結婚の理想

 では、そもそもなぜカトリック教会は、ここまでして離婚させまいとするのでしょうか。
カトリック教義における結婚の意味について考えてみたいと思います。

二人はすでに一体である

 カトリックにおいては、結婚は神がめあわせた、生涯にわたる神聖な秘跡とされます。
 キリスト教の諸宗派のなかでもカトリックは「二人はすでに一体であり、神が合わせたものを人間が離すことはできない(マルコ10.9)」というキリストの言葉をもっとも厳格にとっており、
結婚の秘跡はやり直しができない一度きりのものとされています。

現世と本能を超えたものを望む教え

 そうはいっても、人間とは不完全なものですから、失敗してもやりなおすことができないこの制度を非現実的だと考えることも自然なことで、よく理解できます。
 ですが、思うに、そもそもキリストの教えは、人間が不完全なことを認めつつも、「敵を愛せ」「右の頬を打たれたら左も」など
人間としてのごく自然な感情や行動にあえて反することを命じてもいます。
 これは、人間の自然な感情や本能は基本この世を生き抜くためのものであるのに対し、キリストの教えはこの世の幸せを超えたものを見据えているからです。

 ですから、結婚に関しても同様で、たとえ人間としての自然な愛情がなくなったとしても、相手を神から与えられた伴侶として信仰でもって愛し仕えるという決意、
そういう召命を受け入れることが、神の前における結婚の契約だとカトリックでは考えるわけです。

 これは、たとえば聖職者の召命をうけた人(神父様や修道士・修道女)が生涯独身を貫くことと似てもいます。
 独身を貫くとは、種をのこしたい生物でもある人間としては、自然な本性に逆らうものであるかもしれません。
 が、キリストに倣うとは、そもそもそうした本能の支配する現世を超えたものを望み、追及することです。
ですから、カトリックにおいてそれは来たるべき世のかたどりとして大きな意義を持つとされます。

聖性への誘い

 ともあれ、このような結婚の道は自己奉献の道であり、進むにつれ修道生活の道と本質的な違いはなくなります。
 どちらの道も現世を超えた存在である神への信頼に根ざすからです。
 ゆえにカトリックでは、結婚生活へ入ることも、修道生活へ入ることも、神からの召し出し(召命)ととらえています。
 そしてこのように結婚の召命を人間としての本性を超えたやり方で生きる人は、俗世にあっても聖性への道を歩むことになりますから(例えばアウグスティヌスの母・聖モニカが有名です。)、教会は結婚を通じて聖人となるような生き方をよびかけていると言えます。

 これが、カトリックにおける結婚の目指すところです。
もちろんそれは簡単なことではありません。
 敵を愛し、自分を呪うものを祝福し、自分の罪の十字架を背負ってキリストにならう道です。(伴侶が敵というわけではないのですが)。
 離婚を否定することによってカトリックの教会法がわたしたちに促している結婚のあり方はこうしたもので、これができるならば確かにそれは素晴らしいことだと思います。 

理想と現状

理想と現状のはざまで

 が、実際には、わたしたち凡庸なカトリック信徒にとって、そうした聖人のような結婚は困難であるというのも事実ではないでしょうか。
 確かに右の頬を打たれたら左の頬も、と言うのがキリスト教ですが、実際に教会法をもって左の頬を出せと強制されるのもなんだかなぁという感じがします。(思うに、キリストに倣うことは、信徒であってもやはりその個人個人の自発的な意思に任されるべきではないでしょうか。)

 また、信徒から相談を受けた聖職者も、それが性格が合わないとかの理由であれば、神から与えられた人だから離婚せず、信仰によって相手に尽くすことを勧めることもできるかもしれませんが、
これがDVとか虐待とかと言ったレベルのものだとまた重みも違ってきます。
 極端な例ですが、たとえば、
犯罪者の男に殺されるも、息をひきとるまえに許しの言葉を遺して、彼の改心を引き起こした聖マリア・ゴレッティ(イタリア、1890-1902、注;彼女は未婚の若い少女で、乙女殉教者です)のような人であれば、
結婚してDV夫に虐げられても、むしろそれを聖性への糧としてより豊かな実を結ぶことができるのかもしれません。
が、普通の人にはそれを期待するだけでも酷と言いましょうか、実際離婚して逃げるのが普通で、それをカトリックだから離婚は良くないと言うのはあんまりじゃないかという気がします。

 実際、長い司牧経験のある神父様が、「現実として、本当に深刻なケースでは、相談してきた信徒に離婚を勧めることもある」と言われていたとおり、
 教会としての理想と現実とのはざまで聖職者たちも時に悩まれている本当にデリケートな問題だと言えます。

厳しさの弊害も

 ともあれ、そうしたことで、カトリック信徒であっても民法の離婚を選択する人は少なくありませんし、
離婚ができないならカトリックをやめようという人もいます。これは大変残念なことです。
 またひどいケースでは、自分はカトリックで離婚ができないから不倫しているなどというとんでもない理屈を聞いたこともあります。
 これは全く本末転倒であり、不倫をカトリックのせいにするくらいなら、さっさと民法上の離婚をしてケジメをつけたほうがまだマシなんじゃないかと思うのですが……。
 ただ、そうした屁理屈の正当化の機会をカトリックが与えてしまっているのも事実であるわけで、
それも突き詰めればカトリック教会の求める理想が現実と比べて高すぎるため、ある人々にとってはもはや意味の分からない教義と化してしまっていることに起因しているわけです(…かね?)
 なんにしろ、現実へのすり合わせは一考に値するように思われます。

他の宗派では

 さて、参考までに、キリスト教の他の宗派ではどうなっているのか急ぎ足で見てみます。

 プロテスタントはやはり現実を重視している感があり、結婚は「秘跡」ではなく「祝福」とされ何度でも可能です。
 プロテスタントにもやり直しや取り消しのできない「秘跡」はありますが、それは洗礼などより重要なものに限られ(宗派によって多少の違いはあるようですが)、結婚は含まれていません。
 離婚を奨励しているわけではないのでしょうが、特に禁止もしてはいないようです。

 イギリス国教会は、そもそもヘンリー八世の離婚問題からカトリックと袂を分かっていますから、離婚オッケーです。(結局、彼は生涯で6度結婚したということで、当時のカトリック層の「それみろ」という声が聞こえてきそうです。)
 ただし、それ以外の教義は、むしろプロテスタントよりカトリックに近いと言えます。

 また、興味深いことに、東方正教会でもカトリックとは事情が少し異なるようです。
 東方正教会の教義は全般的に本当にカトリックと近いのですが、婚姻については例外的です。
 東方正教会においても、結婚が秘跡(一生に一回のみの特別なもの)の一つであるというのはカトリックと同じです。
が、その結婚がうまくいかなかった時には、この相手と許しあえる関係になったかなどの審査を経て贖罪の祈りをすれば、次の結婚に進むことができます。
 二回目以降の結婚は「秘跡」にはなりませんが、それでもちゃんと教会で認めてもらえる正規の結婚であり、
 信者としては教会との絆をより感じることができるかと思います。
 個人的にこの東方正教会のやり方はバランスが取れているように思うのですが、どうでしょうか。

カトリックの目指すものは

 さて、キリスト教・カトリックにおける結婚・離婚の問題についてみてきました。
 それぞれの立場にそれなりの説得力があり、万人が満足する正解は見つからないように思えますが、
 それでもより多くの人が納得できる方策を模索していくことになるのだろうと思います。
 現状はフランシスコ教皇のとられた変革(婚姻無効手続きの簡素化)からするに、カトリック教会の離婚・再婚問題はどうも東方正教会のやり方へ近づく途上にあるようにも思われます。
が、教会内に疑問や反発が全くないわけでもないようですし、今後どうなっていくかはわかりません。
その動向を注視していこうと思っています。

私の個人的見解

 さて私個人の感覚としては、先ほど述べたように東方正教会のやり方か、もしくは厳しいと言われつつも、やはりカトリックのやり方がしっくりくるように思われます。
 というのも、これは私の個人的な経験ですが、聖体拝領のとき、いつも立ち上がらずに座ったまま(つまり、聖体拝領を何らかの理由でーおそらくは離婚でー制限されているらしい)の年配の信者ご夫婦を知っています。
 お二人は一緒になってから40年以上、そのようになさっているそうです。

 もちろん聖体拝領をせずとも彼らはミサに参加されており、その恵みは彼らだけを避けるわけではありません。しかし、皆が聖体拝領をするときに、座ったままでおられる(聖体拝領をしない)というのは重みがあります。
 彼らは40年以上聖体拝領をしないという行動により、身をもって若い人々に離婚の重みを伝えてくださっているように私には感じられます。
 「これだけの覚悟があるのでなければ、一時の感情で離婚してはだめですよ」と。

 離婚によって聖体拝領を制限するというのは、教会からの疎外のようにも見えますが、破門と違い信者であることに変わりはないのですから、疎外ではないと私は思っています。
 それどころか、むしろ「離婚を経験したカトリック信者」として、共同体の中で、他の人にはできない新たな役割を与えられたのではないかとすら思うがゆえに、このカトリックのやり方も悪くない気がするのです。

 そして、さらに、ここだけの秘密の話ですが(?)、
どうやら離婚して聖体拝領はじめ秘跡を受けられなくなった人も、
 臨終が近いとなると何らかの方法でその制限が解かれ、聖体を頂けるらしいです。
 教会もあまり明言しておらず、どのような法律構成でそれがなされるのかは私にはわからないのですが、そういうお許しを実際に神父様から頂いた人がいました。
 また、ある学者でもあられるある神父様にお聞きしたところ、その法律構成や手続きなどまでは教えていただけませんでしたが、一応は是認されましたから、そういうことはあるのだろうと思います。

 こうした事実を知ると、いっそう離婚による秘跡の制限はそこまで大したことではないという気にもなってきます。
 いえ、大したことですが、それでも死ぬまで一生続くわけではないんだな、と。
 ときにすごく厳しいように思われるカトリック教会ですが、やはり「母なる教会」という呼び名も伊達じゃないですね。
…というここだけのひとりごとでした。

補足;相手が離れていった離婚と教会法

補稿です。
 カトリックでは、離婚した場合には聖体拝領はじめ秘跡を受けられなくなりますが、
片方にはカトリックとしての婚姻を続けたい意志があるにもかかわらず、
もう片方が一方的に離婚して離れていってしまった場合にはどうなるのかという問題がありますので、これについて補足したいと思います。
 結論からいえば、そうした場合には例外的な手続きがありえます。

カトリックの教会法において、カトリック信者が民法上の離婚をした場合、それを主任司祭を通じて教会の結婚問題手続き部門に知らせる必要がありますが、
ここで、”民法上は、相手が離れていったのでやむを得ず離婚したが、本人としてはカトリック法に従いたいと思っている”という場合、「教会法上の別居」許可を申請することができます。そしてこれを得ることで、許しの秘跡や聖体拝領などを今まで通りに続けることができる道があります。
 この場合、民法上は離婚をしたことにはなっても、教会法上は離婚ではなく夫婦ではあるものの別々に暮らしている状態だということになるわけです。
 もちろん、教会法上は婚姻状態としても、民法上は離婚が成立しているわけですから、前配偶者に対して社会的な婚姻上の権利は何もありません。
 ですが、カトリック教会内においては、この人は結婚の召命を生きていると見なされ、秘跡の制限を受けないという点において、実質的な意味があると言えます。
 そこには、やはり一方的に離れていかれた時にすらペナルティを与えるのは適当でないという配慮があるものと思います。

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