死刑について~旧約の知恵とキリスト教的慈愛

まじめな教義・聖書の話

死刑の現在

死刑

 こんにちは。
 今回のテーマは死刑です。敵を愛せ、右の頬を打たれたら左の頬を、と説くキリスト教にとって、死刑とは扱いが難しいものです。
 とはいっても、もちろんキリスト教教義は社会を無法地帯にすることを目指すものではなく、法が滅び去ることは人間社会が存続する限りあり得ません。が、それでも、人が人を裁くことをどこまで許していいかというのは本当にデリケートな問いです。

 さらには、社会問題としてのみならず、キリスト者にとっては、主が亡くなられた刑罰としても特別な意味を持ちます。ある意味で死刑宣告とは、相手を断罪する人間の傲慢さの象徴ともなりうるということでしょう。
 今回は、この死刑について少しばかり思いを巡らせてみたいと思います。

世界の潮流

人類と死刑

 さて、まずは死刑制度における現在の世界情勢を概観してみます。
 かつては多くの、というよりおそらくはすべての国において、死刑は存在したと言えるかと思います。それこそ紀元前16世紀の記録を最古として、古代エジプトの時代から死刑は存在しており、それ以降も死刑が存在しなかった文明というのはおよそなかったようです。
 近年でこそ死刑廃止の流れが強くなっているように思われますが、実はバチカンですら1969年まで(執行自体は19世紀が最後)死刑が存在していました。

 これは興味深いことです。何かの悪事を犯せばそれに相応する罰則を与え、それによって社会の平穏が保たれるはずという考えは、人間に共通のものであったかのように思われます。そして、殺人の痕跡を示すネアンデルタール人の遺骨が出ていることからもわかるように、人類にとって犯罪は常に歴史の一部であったのです。

その遷移

 また、キリスト教的支配の強かったかつてのヨーロッパにおいては特に、罪状に相応する罰を与えるべしという因果応報的な思想が強くありました。
 その背景には、人間は自由意思によって罪を犯すものであるからその責を問えるという理論がありましたが、自由意思という点においてキリスト教がこの理念に大きく寄与したことを認めねばなりません。

 ですが、民主主義と資本主義の発達とともに、その意識も変わり始めます。
 貧しい人々がわずかなパンのために何度も犯罪を繰り返すことなどから、罪は完全には自由意思に寄っているのではないのではないか、ひいては懲罰では犯罪は防げないのではないかという認識が生まれ、それは福祉の概念へと発展するとともに、人間の「矯正」(罰ではなく)を目的とした刑務所が作られるようになります。
 さらには大戦を経ての人権意識の高まりの機運もあいまり、徐々に死刑は縮小の方向へ向かいます。

 未曽有の惨禍を見せた第二次大戦後には、その反省から国連において1948年に世界人権宣言が採択されます。
 それをうけて1966年に国際人権規約が採択、そして1989年には、この国際人権規約の中の自由的規約であるB規約第六条「生命に関する権利」から派生して、ついには国際死刑廃止条約が採択されるに至りました。
 この採択にあたり、日本は米・中などとともに反対票を投じましたが、締結国はヨーロッパ諸国を中心に増え続けています。

現代の様相

 実際に、2021年アムネスティインターナショナルの報告によると、正式に死刑を廃止・または事実上の廃止(制度としては残っているも実際には長期間――10年以上が一つの目安らしい――行われていない)をした国は144か国にのぼり、これは世界にある193か国(国連加盟国)のうち7割以上に上ります。
 また、死刑を存続・執行している国は、アジア・中東に多く、先進国ほど廃止の流れが強いとも言え、ヨーロッパではEUをはじめ、ベラルーシを除くすべての国が廃止しています。

 日本は、アメリカ(州によっては停止・廃止、連邦レベルでは実施)とともに、先進国の中では珍しく死刑執行を行っている国です。
 先進国の基準と言えるOECD加盟国の中では、日米のほかには韓国のみ死刑が制度としては残っていますが、20年ほど執行が行われていないことから、事実上の廃止と呼べるかと思います。

 ちなみに、日本は、諸外国との犯罪人引渡条約が米韓を除いて結ばれていないのですが、それもこの死刑の存在があるからではないかとも言われています。
 このせいで日本で罪を犯した外国人を裁けないケースがあるとしたら、それはそれで残念とも言えるかもしれません。
 
 とはいえ、死刑には賛否両論があり、そのどちらにもそれなりの言い分があると言えるでしょう。
 死刑が廃止された国においても、それが本当に正しいのかという議論が消え去りはしませんし、アメリカのように、一度全国(州のみならず連邦レベル)で死刑が廃止されたものの(1972-1976年)のちに復活したという例もありますから、死刑廃止の流れが強いこの状況がずっと続くと言い切れるものでもありません。

 賛成派からは、凶悪な犯罪は命を持って償うのが正義の実現である、死刑廃止が凶悪犯罪の増加のつながるのではないか、などの意見が挙げられ、一方で死刑反対派からは、死刑という刑罰自体の残虐性や冤罪の場合に取り返しがつかないこと、また死刑に犯罪抑止力があるとは証明されていない、などの意見が挙げられます。
 この他にも、被害者感情、また被害者による私的な報復の予防などもまた見過ごせない点です。

カトリック教会は

 そして、現在カトリック教会はというと、死刑に反対しています。
 実は、ヨハネ・パウロ二世の前には、カトリック教会は数世紀にわたり、「極端なケースにおいてのみ死刑を容認する」という限定的な立場をとってきましたが、彼の在任中にその限定すらも取り払うという立場へと変容しました。
 そして2018年のカテキズム改正ではそれがはっきりと示され、「いかなる状況においても死刑は容認されない」と明記されました。

 フランシスコ教皇は死刑存続国である米議会での演説において、強く死刑廃止を訴えるなど精力的な活動を続けられています。
 その死刑大国アメリカでは、2000年代以降死刑減少の動きがありましたが、トランプ政権においてその反動のように死刑執行の旋風が巻き起こり、しかしその後カトリック信者であるバイデン大統領が公約に死刑廃止を挙げて当選を果たすなど、非常に目まぐるしく揺れ動いています。

 カトリック信者である私は、カトリック教会はキリストの花嫁であり、私よりも賢いのだからそれに従おうとの決意を持ちつつも、実は私も個人的な感覚としては、冤罪の可能性がなく本当に極端な場合であれば、死刑が許される場合もあるのではないか…?と思ってしまうときもあり…(ヨハネ・パウロ二世前の限定的死刑容認論の方が個人的にはしっくりきたような)…、本当になんとも言いづらいものがあります。

 死刑の賛否、それは本当に難しい問題ですから、ここではその答えを求めることを目的とはしません。
 ここではただ、この難しい命題に関して人類の叡智の一つと言ってよいであろう旧約の律法が何と言っているかを見てみたいと思います。
 まずは刑罰一般、それから特に死刑が旧約の律法においてどのように扱われているかを概観し、そのことから人間社会に犯罪がある限りその影として、(たとえ制度として廃止されても)我々人間の脳裏に常に付きまとうであろうこの死刑というものの性質について、少しだけ考えてみることができれば十分だと考えて論を進めていきたいと思います。

旧約における刑罰

 さて、前置きが異常に長くなってしまいましたが、今から本題です。

 旧約聖書には、宗教的な教えのみならず、現代で言えば法律、民法や刑法のようなことが書いてある部分もあります。それをそのまま現代に適応させることはできませんが、同時にそれが単なる決まりを超えて、興味深い深みを持っていると思わせることも多々あるものです。
 これから刑罰、特に死刑を見ていくにあたり、ここでは旧約の書物の中からモーセ五書のひとつである申命記を選んで、いくつか有名な個所を取り上げてみたいと思います。

目には目を、歯には歯を

 まず、犯罪一般論として「目には目を、歯には歯を」を見てみます。これは有名なフレーズです。いわゆる同害復讐法ですね。
 元はハンムラビ法典と言われていますが、旧約聖書の出エジプト記と申命記にも載っています。ここでは申命記から引用します。

命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない。(申命記19ー21)

 同じものには同じもので償え、ということのようです。しかも、目と歯だけではなく、手や足、ひいては命まで出てきました。
 これはつまり、殺人には死刑をもってということでしょう。非常に、単純明快な、ひねりのない決まりのようにも思えます。

 しかし実は、この同害復讐法には、同じだけの復讐をしてよいと規定する一方、逆に言えば、同じだけの復讐以上はしてはいけない、という報復の上限を戒める意味もあるのです。
 というのも、私たちは、歯を一本折られたら、先にやった方が悪いのだからじゃあ二本折り返してやろうという思考に陥りがちです。しかし、歯を一本折った相手からすれば、何か理由があってやったことであったはずです。それなのに、仕返しに二本折られたら、自分は一本しか折っていないのに二本も折られた、だから今度は三本折り返してやろうと思うかもしれません。
 こうして憎しみの応酬は増大していきます。敵から一人殺されれば二人三人と殺し返す、それがいつしかお互いが大多数の大虐殺へ、ともなりうるわけです。人間の常ですね。

 ですが、この法はそれを同害までの復讐に制限することで、こうした負の連鎖とその拡大を予防するものです。ですので、単にやられたらやり返していいよ!という単純なものではありません。
 旧約の律法には、このように人間の性質や背景の事情までを含めて定められていることが多く、一見単純でも、実はそれ以上の意味があるものも多いのです。

間違えて死なせたら?

 次は、殺人に行く前に、殺人よりも少しだけマイルドな事例を見てみます。

 同じく申命記からで、以下は間違えて人を死なせてしまった場合についてです。旧約聖書ではどのように裁くことを妥当としているでしょうか。

 …以前から憎むこともないのに、その気もなく人を殺した場合、例えば、隣人と一緒に、木を切り出そうとして森に入り、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、斧の頭が柄から抜けて隣人にあたり、隣人が死んだ場合、その人は他の町に逃れて、命を全うすることができる。(申命記19,4)

 これは、現代の刑法で言えば過失致死が近い感じですね。
 以前から憎んでもいなくて、殺す意図もなかったのに斧の事故で殺してしまったとのことですが、これは意図がなかったので殺人罪ではなく、命を全うできる、つまり殺人の罰である「死刑」を受ける必要はありません。故意に着目するところは現代の刑法とも同じです。
 しかし、単に殺人でないと定めても、それで終わりではないことに注目です。
 その人は他の町に行かねばならないというのです。(民法的な賠償としての定めは別にあります。)

 というのも、殺された側の人の家族は、わざとではないとわかってはいても、同じ集落でその隣人が幸せになることを見ていては平安ではいられないかもしれません。ひいてはそこから何か新たな悲劇が起こるかもしれません。
 しかし、間違えて殺してしまった側の人だって、その奪ってしまった命の重みを忘れてはならないとは言え、わざとではなかったのですから、これからずっと悲しんで贖罪のみの人生を送るのも現実的ではありません。むしろ命を全うできると言われた以上、それなりに笑ったり幸せになったりするのは当然でしょう。
 そこで、そのバランスをとるために、やってしまった側が、他の町に逃れて命を全うすることができる、となるわけです。

 これは、その事件の後も生きていかねばならない人間の生活を考えていると言え、現代の法律にはちょっとない点のように思われます。こういうところが、旧約の律法の面白い所です。

死刑のあり方は?

 さて、いよいよ死刑について見てみます。先ほど見た箇所には「命には命を」と書いてありましたが、具体的にはどのような場合が死刑になるのでしょうか。
 以下、同じく申命記です。

もし、人が隣人を憎んでそれを付け狙い、立ちかかってその人を撃ち殺すならば…(略)…彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流したとがを、イスラエルから取り除かなければならない。(申命記19.11-13)

 このように、命には命をという原則に加え、「憎んで」その人を撃ち殺すという「故意」を条件として、そのとが(人)をイスラエルから取り除かねばならないと定めています。
 故意がなければ殺人が成立しなかった先ほどの斧の例の逆です。これもまた現代の刑法と同じような感じですね。

 では、その方法は、どのようになるべきでしょうか。そこがちょっと興味深いのですが、実は、その方法も同じく申命記内に定めてあります。

この悪事を行った当の男ないし女を町の門に引き出し、その男ないし女を石で打ちなさい。彼らは死なねばならない。
二人の承認または三人の証人の証言によって殺すべきものを殺さなければならない。ただ一人の証言によって殺してはならない。
そのような者を殺すには、証人がまず手を下し、それから民が皆、手を下さなければならない。(申命記17.5ー7)

 これは、聖書を読んだことがある方なら聞いたことがあるかと思います。
 イスラエルの律法では、死刑の方法は石打ちでした。(ちなみに姦通の罪もまた石打ちによる死刑でしたから、聖書に出てくる”罪の女”のみならず、もしもヨゼフがその妻マリアの聖霊懐胎を信じずにその妊娠を公にしていたなら、マリア様もまた石打の刑にされるところでした。)

 この石打ちとは、町の門にその罪人を引き出し、皆で石を投げて殺すというものです。
 新約聖書の使徒行録に出てくる最初の殉教者聖ステファノも、この方法でファリサイ派率いるユダヤ人たちから殺されました。(ちなみに、キリストが受けた十字架刑はローマ帝国式の死刑方法であり、それはイスラエルの死刑とは意趣が違って、長く酷く苦しませる残虐さに特化した刑でした。それにしても、母も息子も弟子たちも、死刑がこんなに身近な人々の集団って…)
 
 死刑にするのなら、どんな方法でも同じではないか、命を奪うということに変わりはないのだから――とも思われますが、この死刑の方法をよく考えてみると、なかなかに興味深いものがあるのです。
 それは何でしょうか。

処刑人の存在、もしくは隠された場所での執行

 さて、少し話は脱線しますが、死刑の方法を論ずるにあたり、ここで少しだけ処刑人というものの存在について考えてみたいと思います。

 例えば、かつて江戸時代の日本における死刑執行人は、山田浅右衛門という名前を踏襲、つまり歌舞伎のようにその名前を代々継いでいくことでその職務を担っていたといいます。
 なぜ本名で職務遂行しなかったのかというと、それはその職務が多くの意味で大変に荷の重いものであったからでしょう。それが法に則り社会に必要なものだと認知されているとしても、実際にいざ人の命を奪うというのは大変に困難なものであった故、職務から離れた時のその人の生活を守っていたとある意味で言えるかと思います。

 現在では刑務官がその職務を担っていますが、その執行は塀の中でも厳重に管理された場所で非公開で行われるものであり、さらには刑務官たちの心理的負担を軽減させるために様々な工夫がとられているといいます。
 首に縄をかける役割と、絞首刑の床板を外すボタンを押す役割、床板から落ちてきた死刑囚の体が揺れるのを抑える役割はそれぞれ別々の人が担い、さらには絞首刑の床板がはずれるボタンを押す者は複数人選ばれて、そのうちのどのボタンが当たり(というと何ですが)だったか押した本人たちは知らされないそうです。
 とはいえ、それでもその心理的重圧たるや想像できるものではなく、特に心の強い刑務官が選ばれるにもかかわらずその後に精神を病んでしまう刑務官もおられると言います。
 それだけ重い、取り返しのつかない行動だということです。

 また諸外国でも、死刑がある(あった)ということは何らかの形で(特定人なり官僚なり)常に死刑執行人がいる(いた)ということになります。現代では日本と同様に役人が多いようですが、近代以前には特定の死刑執行人がいた国も多いようです。
 近代以前の死刑執行人は社会に必要なはずにもかかわらず、多くの場合忌み嫌われていたようで、そのため死刑囚を死刑を免れさせる代わりに執行人にする、何らかの罪人を執行人にしてそれを世襲にする、最下層の地位(カーストなど)の人を執行人にする等々、人材供給のための工夫が行われていたようです。

 社会として死刑に賛成しつつも死刑執行人を差別するとは、自分の手を汚したくないけれども罪人は死刑にしたいという卑怯さのようにも思われますが、それも私たち人間社会の実際のところなのでしょう。
 また、特に中世ヨーロッパの処刑人は、今でいうKKKのようなマスクをかぶっていることも多く、かえって不気味な感じもするのですが、それもまたこうした職務の過酷さ故と言えるかと思います。

 そして、なぜこのようなプロの処刑人というものが存在するのかと言えば、それはとにかく、その職務の独特な性質に尽きると言えるでしょう。
 現代でも心理的負担を軽減させるための措置が取られていたり、昔では名を隠したり顔を隠したりして素性を隠したりすることからも、その職務の過酷さと独特さがわかるというものです。

 さてここで、石打の刑に戻って考えてみます。
 こうして改めて考えてみると、皆での石打ちという手段を定める旧約聖書は、ある意味で非常に特殊なように思われませんか?

 石打においては、まず、罪人を町の門まで出します。これは死刑が公開の場で行われるべしということでしょう。
 そして、石打は、処刑人など特定の誰かによってではなく、公開の場において最初は証人によって、そして最終的には皆で行わなければならないのです。

石打ちの重み

 公開としたうえで、皆で手を下すとなるとどうなるか。死刑に賛成しておきながらその手は血に染めず、ということができなくなります。
 裁かれた死刑囚が死ぬ、その結果は同じでも、その過程が大きく違うと言えるのではないでしょうか。
 一人一人がその裁いたものの重みを石を持つその手に感じ、そして自分の投げたその石が当たって血を流し、死んでいく罪人を白昼の公開の中、お互いにその目で見届けることになるのです。

 そして、最初にまず自分のみで石を投げなければならない証人は、特にその重みを感じることでしょう。
 多くの人の投げた石が当たって死ぬ場合には、どの投石がどう当たったかが多少あいまいになることもあるかもしれませんが、自分のみが投げてその人に当てた石は確実です。そして、それを後ろで石を持って待ち構えている皆に見せなければなりません。
 でも、それこそが、その断罪に必要な証言をするということの重みです。

 そして、その後は皆で絶命するまで投げ続けます。そうすると絶命するまでに投げた全員が、多かれ少なかれその命にかかわりを持つことになります。
 万が一冤罪だったとわかった時には、皆がその責を感じることになるでしょう。
 もちろん、冤罪でなく法に則って裁かれて死刑になるのが妥当だったとしても、私でない他の誰かが殺したわけではない重さがそこにはあるのです。

死刑に賛成することに伴う犠牲

 そう考えると、この方法もまた、旧約の智慧ではないかという気がしてきます。
 公開という意味では、現代より前の時代ではそうであったことも多いかと思いますが、それも見世物といった意味合いで、多くの場合は自分が手を下さないからこそ見ていられる残酷な余興でした。
 しかし、律法の石打ちでは、自分が手を下すことが公開になるわけですから、全く違います。

 一方、現代では、その執行を人々が目にすることはありません。死刑執行は生命を奪うものであり、現代の法で定められた人員において厳粛に行われるべき行為だからです。しかし、同時に、それによって私たちはその実際を知ることがありません。
 私たちは手も下さず、見ることもなく、それは公務として刑務官の方々によって厳粛になされ、私たちはその結果のみを新聞やテレビやネットを通して、法務大臣から知らされます。
 そこには制度としての理念のみがあり、実際の死刑がどんなものかという実感が伴い得ません。

 繰り返しますが、私はカトリック信徒ではありますが、正直に言うと、時に冤罪の可能性がなく極端に酷い罪状だと死刑もやむなしではないかと思ってしまうときがあります。
 しかし、そのような場合ですら、もし自分の手で絞首台の底が落ちるボタンを押さねばならなくなったら、または上から落ちてくる死刑囚の体を押さえなければいけなくなったら、それを為すことができるかどうかわかりません。
 いざ目の当りにしたら、そこまで残虐なことをするよりは終身刑にしたほうがいい!とか言ってしまうかもしれません。
 しかし、もしかしたら、それが誰か私の身近な人を殺した犯人だったら、あるいはもっとしっかりできるのかもしれませんが、そのような状態で人の命を奪う行為が本当に正しいものなのかという新たな苦しみも出てくるのかもしれません。
 結局のところ、本当に、それがどのくらい重いものなのか、想像がつかないから、本当にわからないのです。
 そういう時、もしかしたらカトリック教会の死刑反対の社会教義を定めた教会上層部の神父様方や司教様方、枢機卿様方は、教誨師として死刑囚に触れ合った経験が多くあるからこそ至った境地なのかもしれないと想像するときもあります。
 しかし、私にはそのような経験をする機会もないので、結局はわからないままです。

 しかし、何にしても、その死刑執行に賛成するのであれば、本来ならその石を投げる重みをも背負うのが筋だろうと思います。
 それは、たとえそれが正しいことだと心から信じられる場合であっても、それはそれとして自分が誰かの命を奪ったという重大な事実を人生の一頁に加えます。
 そんな時、死刑を定めつつその執行を一人一人に負わせる旧約聖書の律法は、理論に極めて誠実な、やはり非常に深い意味を持つものではないかと思います。

旧約の智恵とキリスト教的慈愛は交わりうるか?

 かといって、もちろん、現代において石打のような方法をとることは現実的ではありません。
 が、例えば裁判員制度のように、もしも、実際の死刑執行においても、一般国民たる自分もボタンを押す係りに選出される可能性があるとしたら、自分はどのように感じるだろうか、と逡巡してみます。
 目隠しをされた死刑囚を見、その声を聞き、それでもなお、押すことが正義だと、その重みを引き受けても押そうと思えるのなら、その時初めてその執行に賛成するスタートラインに立てるのかもしれません。
 少なくとも、それが旧約の「天地が消えうせるまで一点一画も消え去らない」律法の求めるところなのでしょう。 確かに、賛成だけしてその行動の重荷は担わないことよりは、ずっと正義だと言えそうな気がします。

 が、同時にそれも1+1=2の計算を誰に対しても誠実に平等に当てはめるというような、理論的な正義を定める律法の範疇でのことであり、もしかしたら…、その時には、地面に何かを書きながら、こちらに問いかける理論を超えたキリストの声も聞こえてくるのかもしれません――「罪のない者がこの女に石を投げなさい」と。

 そうなると、ボタンを押す重荷は担えるとしても、自分の一番知られたくない罪を公にするという重荷は担えるだろうか?、そうまでしても石を投げるほどに、私の正義は強いものであるのだろうか?――という新たな問いかけが迫ってくることになるのかもしれません。
 この2つは、双方が確かに真理でありながら、同じ層にはないものであり、通常の方法では交わることがない不思議なもののように思われます。
 たぶん、それが死刑廃止の是非にかかわってくる、律法を超えた新約の教えです。私たちの考えることのできる理論とは次元が異なる、通常の言葉では説明できない――何か違う性質のものです。

読んでくださってどうもありがとうございました。

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