ケンピス「キリストに倣いて(デ・イミタチオネ・クリスティ)」

まじめな教義・聖書の話

こんにちは。
今日は、15世紀の有名な敬虔書である「キリストに倣いて」をご紹介したいと思います。

著者

 このラテン語の原著は、15世紀初めに出されました。
 その著者が誰なのかは長い間はっきりしていなかったのですが(著者が「名声を求めず謙遜であれ」というこの著書のテーマを実行したため、誰がこの名著の作者なのか本当にずっとわからなかった)、現代では、どうやらそれはドイツの修道者トマス・ア・ケンピスだったのではないかと言われています。
 でも、それも本当かどうかわからないですよね。ただ、少なくとも男性で、さらに観想修道者ではあるとは思います。(「どんな婦人とも慣れ親しむな、ただ、一般に善良な女性のことを、神によろしくお頼みするがよい」というくだりがある。)

 このように、観想修道者向けの指南書という性質もあるため、ところどころ一般の信徒にはそのまま当てはめられない部分もあります。また時代的な問題もあります。
 が、キリストに倣うべき本質は、時代を超えて、また修道者でも一般信徒でも同じですのでしょうから、やはり一読する価値のあるものです。

その影響を受けた人々

 このブログで取り上げたロヨラの聖イグナチオも、この著書を愛読していました。ただし、この当時には、この著書の作者はパリ大学の学長のゲルソンだと思われていたため、イグナチオはこの書を「私の小さなゲルソン」と呼んでいました。
 他にも、トマス・モア(イギリス・ヘンリー8世が、自身の離婚問題のためカトリックからの離脱を主張した際、それに反対して斬首刑となる。カトリック教会の聖人)や、フィリッポ・ネリ(オラトリオ会の創設者で、通称「喜びの聖人」)、アビラの聖テレジア(十字架の聖ヨハネの霊的同伴者である、いわゆる「大テレジア」)、それから小さき花の聖テレジア(「小テレジア」のほう)などなど、その他にも、多くの聖人たちに影響を与えました。
 近年では、ヨハネ23世が、この本によって多くのインスピレーションを与えられたことを述べています。
 

抜粋

「キリストに倣いて」の最初の方から、一部を抜粋します。

 あなたがもし謙遜でなくて、聖三位のおぼしめしにかなわぬならば、聖三位について深い議論をすることができても、何の役に立とう。
まことに人を義人聖人にするのは高尚な言葉ではない。私たちを神に愛される者とするのは、ただ徳の高い生涯だけである。
 私は痛悔の定義を知るよりも、むしろ痛悔を心に深く感じたい。
あなたがたとい聖書全部とあらゆる学者の言葉をことごとく暗記したところで、神を愛する心とその恩恵とがなければ、何の役に立とうか。
「空の空なるかな。すべて空である」(伝道者の書1.2)しかし神を愛し、これにのみお仕えすることは別である。(第一巻第一章-3)

 人は生まれつき、知りたいと望む。けれど多く知ったところで、神を畏れる心がなければ、何の役に立とう。
 まことに神に仕える謙遜な百姓は、自分という者をお留守にして、天体の運行を観測する高慢な学者より、はるかにましである。
 本当に自分を知る人は、必ず自分をつまらぬ者と考えて、他人に褒められることを喜ばない。
 たとい私が世の中のことをことごとく知ったところで、もし愛がなかったとしたら、神の御目から見て何の役に立とう。神は私の行いによって私をお裁きになるからである。
 むやみに物事を知りたいと望む心を捨てよ。何となれば、それは心の乱れと迷いとを引き起こすにすぎないからである。
 いろいろなことを知っている者は、とかく他人に博学と思われ賢い人と言われたがる。
しかし、知ったところで霊魂に利益の少ないことや、あるいはまったく利益のないことが多いのである。
・・・・・
もし自分は知識が豊富であり、理解が深いと思われるようなことがあったら、自分の知らないことはまだそれよりたくさんあるのだと思うがよい。
「高ぶるな!」(ロマ書11.20)むしろ自分の無知を認めよ。
・・・・・
あなたは、たとい他人が公に悪事を行い、または重大な罪を犯すのを見たとしても、自分は彼よりも善良だなどとは思ってはならぬ。なんとなれば、あなたのその善良な状態は、いつまで続くかわからないからである。
 私たちはみな弱い者である。しかしあなたは、自分ほど弱い者は他にないと思うがよい。(第一巻第二章1-4)

批判

社会正義とキリスト教

 長らく第二の福音書として評価されてきた「キリストに倣いて」ですが、現代になってから批判も出されるようになりました。
 それは、「社会正義や人権の問題について、何も語っていない」という点です。
確かに、この著の指南するところは、自身の内面の問題ばかりで、キリスト者として社会に働きかけるべき行動については触れられていません。
 それどころか、他者への働きかけというものは、自分の自惚れを刺激しかねないものであるとして、注意するように書かれています。
 それですと、確かに、キリスト教が単なる自己の魂の救済のみを目的とした宗教のようであり、罪びとはじめ多くの他者と積極的に関わったキリストの生き方とはまた違ったものであるようにも思われます。

第二次大戦からの学びと、教会の歴史

しかし、この問題に関しては、まず時代的な学びが大きいことを挙げられるかと思います。
 現代の教会に、魂の救いという純宗教的な目的だけでなく、社会正義にも協力する義務があると私たちが広く認めるようになったのは、第二次大戦の苦い経験によるものが大きいと言えるかと思います。
 ヒトラーの台頭を防ぐために積極的に動かなかったというその事実は、圧倒的でした。
教会が間違いを犯しまくる組織だとしても、それでも絶対にあの時は動くべきだったと、カトリック教会はより外側に向くようになり、その意識は第二バチカン公会議にもつながりました。

 しかし、それまでは、カトリック教会は世俗に口や手を出したり、金もうけに走ったり、自分たちに反する者を迫害したりといった好ましくない歴史を繰り返していたこともあって、そんな歴史の裏では、常に教会が社会にそのように関わることが本当に正しいのかという疑問もまた、ついて回っていました。
 それでも、社会に手を出し、腐敗して迫害し、改革して、また腐敗して、改革して、、二千年のカトリック教会の歴史は、この繰り返しだったと言えます。

 そうした背景を鑑みるに、この15世紀初め(宗教改革が始まるのが16世紀初めですから、この当時は教会の勢力が社会的にもとても強かった時期でしょう)に出された「キリストに倣いて」の著者は、キリスト教による世俗や政治の世界での発信にあまり価値を認めていなかった、ということではないかと思います。
 ですから、現代の感覚のみで、この著書の「社会正義への行動の欠落」を裁くとすれば、それはあまり公平ではないかもしれません。

今日も読んでくださって、どうもありがとうございました。

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