キリストに兄弟はいる?

まじめな教義・聖書の話

キリストの兄弟?

 新約聖書には、キリストの兄弟、姉妹という人々が出てきます。(マタイ12.46、マルコ3.31、6.1、ルカ8.19 など)
これを文字どおりそのままとると、マリアとヨセフにはほかにも子供がいたというふうにも思えますが、聖書にはそれについての記述は他に全くありません。また、教会も伝統的にそう取ってはいません。
 今日はそれについて書いてみたいと思います。

言語的背景

多様な言語が使われていたパレスチナ

 当時、キリストやその弟子たちがつかっていた言葉は、アラム語または古代ヘブライ語でした。
 一方、新約聖書は、当時新たな共通語となりつつあった古代ギリシア語で書かれました。(ちなみに「古代」とつけるのは、現代ヘブライ語と現代ギリシャ語との区別のためです)。

古代ヘブライ語・アラム語

 そして、この古代ヘブライ語もしくはアラム語は、独特の美しさもあることながら同時にかなり荒い(?)言語でもあったようで、細かい表現には適していなかったり、単語がそこまで細分化されていなかったりというところもありました。

 例えば、文法で言えば、比較級がなかったために、二つのものを比較するときには、どちらが「より」良いではなく、どちらかが「良く」てどちらかが「悪い」という表現をされていたといいます。
 おそらく神とマンモン(金銭)の対比などもその一つかもしれません。「あなた方は神とマンモン(金銭)に兼ね仕えることはできない」(マタイ6,24)など、二者が全く対極のものとして描写されている箇所がありますが、よく考えてみれば、確かに金銭が人間のエゴイズムと結びつきやすい面があるとはいえ、何も金銭=悪というわけではないはずですから。
 もっとも、こうした聖書原文の単純さは、その後さまざまな言語に翻訳されていくにあたっては良いことだったかもしれません。
 コーランに翻訳が認められていない(実際には翻訳は存在するが、アラビア語以外のものは、コーランそのものではなく注釈書としての扱い)ということからもわかるように、高尚な内容の書物を翻訳して伝えることにはリスクが伴うものですが、福音書に関しては、原文の単純な文法のせいで、どんな言語に訳す時でも本質のみをズバッ!!と言うしかなく、結果、キリストの思想そのものが翻訳によって曲げられるというのは、少なかったのではないかという印象があります。

 また、現代の感覚からすると、本当に反対の事柄を表す時と比較級の時とで、混乱しなかったのかなとも思いますが…、きっと、そこは文脈や話し方など、何らかのやり方で区別できていたのでしょうね。

 また、「きょうだい」という単語が意味する範囲も違いました。古代ヘブライ語やアラム語において「兄弟」とか「姉妹」とかという語は、いとこや親族を意味するものでした。場合によってはもっと広く「同胞」を表すこともあったといいます。

古代ギリシャ語 

 一方、新約聖書が書かれた古代ギリシャ語の「兄弟」はいわゆる今日的な意味と同じ、つまり親を同じくする兄弟または義兄弟の意味でしたが、福音著者は、当時のヘブライ語の習慣に従って「兄弟」という語をもちいました。
 そうしたことから、この「兄弟」の語は、その後キリスト教布教の基幹となるラテン語訳聖書に訳されるときも、そのまま使われることになりました。
 これが、「兄弟」の語が違う範囲を指すのに、そのまま訳されてきてしまった経緯です。

聖書を読む際には…

 さて、こうした事情なのですが、聖書を一人で読むとよくわからなくなりますよね。
 特定の宗派に影響されず、まっさらな状態で聖書に触れたいとの思いから、あえて自分一人で読み始めようとする方もいらっしゃると思います。そうした思いはとても理解できます。
 ですが、こうした言語的背景だとか歴史的背景だとかの知識を得ることが助けになることもありますので、ある程度は先達の道案内にも頼ったほうがよさそうです。

 また、カトリックの教義はそういうところが特に多いです。結論だけ聞くととんでもないことを言っている感じのものもあります。
 ですが、そう見えても実は、その成立過程だとか背景を知ればカテキズムは一般常識を超えこそすれ、一般常識に反することはまずないものです。
 ですから、もしその表面だけにふれて離れてしまわれるなら、それはとてももったいないことだと思うのです。

タイトルとURLをコピーしました