ベネディクト16世のあるエピソード~ナチス・ドイツに対する発言について

まじめな教義・聖書の話

 ベネディクト16世は昨年末に帰天されました。教皇を退任されたのが2013年ですから、その後約10年間、名誉教皇として生活されたことになります。
 学者としての高名さとは裏腹に、教皇在任中は、何かと批判されることも多かったように思います。それら一つ一つの是非を判断することは私にはできませんが、時に「不器用な方なのかな」と思わせるような言動はあったような気がします。
 その中の一つをお話ししたいと思います。

 それは、教皇に就任されてから、まだそんなに日がたっていない頃のことだったと思います。
 戦後初のドイツ出身の教皇ということで、ナチスドイツと教会の関係といった話題もしばしば上っていました。
 そんな中、あるドイツ人信徒がベネディクト16世に、「私はナチスドイツを止められなかった責任を1ドイツ人として感じるが、どう思われますか?」という質問をしたのです。
 すると、教皇は、「あれは、本当に巨大で邪悪な渦で、個々人の力ではどうにもすることができなかった。」というようなことを答えられました。
 当然、世界中のメディアがこの発言を取り上げ、非難しました。多くのメディアは、この発言のみならず、教皇が少年時代ヒットラーユーゲントに所属していたことも取り上げました。
 私も当時日本の新聞で読みましたが、やはりこうした発言は無責任すぎるといったニュアンスで報じられていました。
 それはそうでしょう。それは、もっともな反応だと思います。

 しかし、もし、10代だった教皇が、無理やりにヒットラーユーゲントに所属させられた後、そこから一人で命を懸けて脱走していたことを、知っていたらどうだったでしょうか。
 彼は、神に祈りながら、何日も飲まず食わずで明かりのない道を歩き続け、自分の村に帰りつきましたが、その途中では、ナチスの兵隊に見つかり、射殺されてもおかしくない危機さえ経験していました。(しかし、この少年を見つけた彼らは、殺さずに逃がすことに決めました――まさか将来の教皇を自分たちが助けたとは思ってもみなかったでしょう。)
 しかしながら、その後、村にはナチス・ドイツが入り――、またもや彼は危険にさらされます。それを救ったのは、どうやら両親であったようなのですが…、その方法は、彼らの信念に反するものだったかもしれません。

 もともと、ヨゼフ(ベネディクト16世)の父は、警察官でしたが、ナチス・ドイツの台頭に伴い、早期退職しています。それは命令を遵守せねばならない警察官としての責任感と、ナチスの命令に従いたくないという信念の間で取った選択でした。
 そうまでしてナチス・ドイツに従わないように努めていた両親でしたが、10代の末っ子(ヨゼフは3人きょうだいの末っ子でした)がヒットラー・ユーゲントから脱走して村に帰ってきて、その後、その村に入ってきたナチス・ドイツに「あれは脱走者ではないか」と目をつけられたとき――、何らかの取り決めをナチス・ドイツとの間で行ったかもしれません――。
 どんなことがあったのか、詳細はわかりませんが、結果として、ヨゼフは脱走者であることが明らかでありながら、その後も捕まることなく、そして、ナチスに協力を拒んでいた両親とヨゼフたちきょうだいの住んでいた家は、ナチスたちの村の停留所として終戦まで利用されることになりました。

 自分が正しいと信じて行った脱走が、このような結果をもたらしたこと、それは少年ラッツィンガーにとって、どれだけの絶望だったでしょうか。もちろん神を信じる人に絶望はないのですが、それでも、そう言いたくなるような心境だったのではないかと思います。
 ラッツィンガーは後にこのようなことを言われています。
 「私の誕生日は聖土曜日だ。聖土曜日とは、神がよみがえるのを待つ喜びの日ではあるが、その日には光は見えない。何も見えない暗闇の中で、神を思う日であり、私の人生はそれにふさわしい。」

 こういう経験をしているからこそ、教皇は、「あれは個人が一人で歯向かえる渦ではなかった」と、本心から、その信徒に向かって発言したのでしょう。
 そして、そのことを知っている信者であれば、その発言の意味がわかります。
 しかし、その時、ラッツィンガーはすでに、ローマ法王になっていました。もはやその講話を聞くのは信者たちだけではないし、その講話は信者たちへの説教を超えて、政治的な意味も持ちます。そして、もちろん、カトリック信者でもない多くのメディアの人々は、そんな個人的な過去など知る由もありません。
 ですから、あれは、国家元首としての性格ももつローマ法王としては、もしかしたら一種の失言だったのかもしれない、と思います。

 しかし、私は、そんな教皇ベネディクト16世を、いかにも聖職者らしい感じがして、好ましく思っていましたし、そして何よりも、彼の神学的な功績は大きく、やはり比類ない方だったと思います。
 前任者ヨハネ・パウロ二世は、その聖性のみならず、政治家としての能力も高い方でした。まさにヘビの賢しさと鳩の素直さを任せ持ったような方でしたから、そのカリスマ的な人気と比べられることも多く、時にベネディクト16世は気の毒な感じだったようにも思います。
 しかし、どちらが良いかという問題でもないのでしょう――、神様の前に、すべての人は必要とされており、一人ひとり、それぞれ異なる役割があるからです。

 ちなみに、ベネディクト16世は猫派だったそうです。
今日も読んでくださって、どうもありがとうございました。
 

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