「無名のキリスト者」

まじめな教義・聖書の話

こんにちは。
本稿では、カトリック神学の一つのテーマについて、少しだけ見てみたいと思います。

「異教徒」の語

 かつて、キリスト教では「異教徒」という言い方をすることがよくありました。
これは、キリスト教を信じていない人々のことで、なおかつ「彼らはキリスト教を信じていないから罪深い人間である」という価値観を背景に持つ言葉でした。
 かつてのヨーロッパでは、多くの人にとって、異教徒、例えばイスラム教徒と直接に人として接する機会はほぼなく、たまに接触があるとすれば遠くで起こった戦争などとしてだったのでしょうから、知らぬが故の誤解というものは、仕方がない部分はあったのかもしれません。
 しかし、実際には、異教徒だから悪い人間だというのは、ナンセンスと言わざるを得ません。多くの宗教や人々を知ることができる今の時代では、それはもう直感的にわかることでしょう。
 
 ですが、聖書には、キリストですら「異教徒」という言い方でもって相手に侮蔑のような態度をとられた描写があります。それは、どうみても正しくないことのように思われるのですが、同時にキリストがそんな過ちを犯すものだろうか、という疑問もあり得ます。
 はたして、そこの整合性はどのように考えればいいのでしょうか。

神学の性質

神学と法律学

 ところで、神学というものは法律学と似たところがあります。
 法律学では一般に、法の言わんとしていることを解釈してそれなりの結果にもっていくものですが、実は神学でもそうです。
そこには理論としての矛盾のない一貫性、そして我々の感覚としての結果の妥当さが求められます。

 法学において、ある法をそのまま当てはめると結論が私たちの感覚に外れたものになってしまうときには、法の趣旨、「本来この法が予定しているものは何か?」と考え、妥当な結論にもっていくことがあります。(ただし、解釈で何でもありというふうにするのはもちろん論外なので、その解釈の方法や制限はあり、それによってある程度誰が扱っても同様の結論になるようにとの調整はあります。)
 同様に、神学においても、聖書の言葉をそのまま取ると、どうしても我々の正義に反するというときには、おそらくこの言葉をそのまま取るようには予定されていないのだろうと推察し、(根底にあるのは、神の正義は我々の正義を超えはすれ、反することはないという信頼です)、適切な解釈を探すことになるのです。
 そうした解釈の体系が、教会の二千年におよぶ聖書への探求であり、神学です。

神学と法律学の違い

 ただし、法律には法改正という可能性があるのに対して、神学には神の言葉を人間に改正する権利は認めません。キリストの言葉や行動が一見妥当でないように思われても、私たちにそれを修正する権利はないのです。法律は我々人間が作ったものですが、神の言葉はそうではありません。神から与えられたものだと考えられるからです。
 一方、法律においては、あまりにそれが我々の感覚と乖離してしまっている場合(あまり多くあることではありませんが、例えば時代や社会状況の変化などによってはたまにあります)には、違憲無効(実質の廃止)や法改正がありえます。
 そこが神学と法律学との最大の違いです。
 
 さて、こうしたことを踏まえて、「異教徒」の語について考えていきたいと思います。

「カナンの女」

さて、聖書の中の「異教徒」が出てくる逸話として有名なものに、カナンの女の話があります。(マタイ15,21‐28)
 娘の病を癒してほしいとキリストに懇願してくる、この地に生まれたカナンの女(この地生まれということは異邦人=異教徒であるということ)を、キリストが何度も冷たく拒絶します。
 その際にキリストは、「私はイスラエルの羊の下にしか遣わされていない(=あなたはイスラエル人でない異邦人だから、あなたを助けはしない)」という言葉さえ言い放ち、女を拒絶します。
 しかし、それでもあきらめずに願い続けた女に対し、最後にキリストは、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と言われて、そのとおりに女の娘は癒される、という話です。

 これを、そのまま「イスラエル人でない=異邦人だから」という理由で拒絶したと読むと、とんでもない話です。これでは、キリストはレイシストもいいところです。
 しかしながら、聖書の他の個所では、キリストは異邦人であっても高く評価するときは評価し、相手がイスラエル人、しかも律法学者や大祭司であっても非難するときは強く非難しています。
 そうしたことから、ここでは、単に生まれや育った文化・宗教的背景を理由に、この女を拒絶したと考えるのではなく、違った意味があるのではないかと捉えるべきではないかという予想が出てきます。

 結論として、詳細は省きますが、この話に関しては、おそらくは「人間として倫理的にあるべき姿でない」状態を「異邦人」といった表現で比喩的に表現しているのではないか、というのが現在よく聞かれる解釈です。
 そうすると、娘よりも自分を優先してしまっているらしいことが文章の端々から感じ取られるこの母に、キリストが「そのような態度ならば、あなたの願いをかなえることはできないよ」と言っているということになり、むしろ話全体に深みが一層出てきますし、話の中にちりばめられている様々のキーワードもうまく回収されるように思われます。
 こうした作業が聖書の解釈です。

 (なお、この話については、もう少し詳しく見てみたことがありますので、よろしければ、こちら;母になれない母の苦しみ ~ カナンの女 もご覧ください。)

「無名のキリスト者」

 さて、カナンの女についてはそれなりの結論を出したということにしても、それでも「異教徒=罪びと」という図式は他にも旧約・新約ともに多く使われており、さらに、ヨーロッパを主とする教会文化においては歴史的にも非キリスト者をそのように扱うことが少なくありませんでした。
 古い時代を生きたカトリック教会の聖人の書いたものの中などにも「恐ろしいムーア人(古いベルベル人・アラブ人・イスラム教徒等の呼び名)」などと言うものが普通にありますし(実際に会う機会もなく、お互いに相手を知らなかったのでしょうが)、それにしても、そうしたものは現代好ましいものではありません。
 そうしたことから、神学体系の一部としても、改めて「異教徒」の概念についてそれなりの整合性をとらせる必要があると言えます。

 これに関してご紹介したいのが、20世紀最大のカトリック神学者の一人と言われるカール・ラーナー(1904‐1984・ドイツ)の「無名のキリスト者」という概念です。
 イエズス会士のカトリック司祭である神学者ラーナーは、公式にはキリスト者でなくとも(=他教徒であっても無宗教であっても)、実質キリストの教えを守っていると言えるような人々のことを「無名のキリスト者」としてキリストの救済にあずかるべき人々だと考えました。
 それによって「キリストを信じねば救われない」という古くからの教義を否定することなく、現実的にその幅を広げました。
 これは、それまで排他的であったカトリック(キリスト教)教義に大きな変化をもたらすものであり、大きなカトリック教会の制度的変革でもある第二バチカン公会議へとつながりました。ヨハネ・パウロ二世はとくにこの思想に大きな影響を受けたと言われています。

 もっとも、果たして他宗教の人や無宗教の人々が、「あなたは実質キリスト者だからキリストの救いにあずかれます」という言い方をされて嬉しいかどうかというのはまた別問題のような気もするのですが、それでもこれが20世紀カトリックのエキュメニズムの始まりであったともいえ、宗教的包括主義の大きな第一歩であったと言えます。

 ですので、今日においても、聖書は聖書としてそのまま読まれますが、カトリック教会において「異教徒」「異邦人」などの語をそのままの意味でとることはまずありませんし、とるべきでもありません。
 もし一人で聖書を読んでみた人が、解釈を知らされることなくこうした表現でつまずくことがあるとすればとても残念なことです。

「無名の異邦人」?

 そして、蛇足ですが、さらに言えば、「公式にはキリスト者でないけど、無名のキリスト者として実質的にはキリストの救いにあずかるべき人」という人々がいるとしたら、その逆もまた考えられるのではないでしょうか・・・。
 つまり、公式には洗礼も受けていてキリスト者であるけれども、実質はキリストの教えを守っているとは言えないような場合・・・、表向きキリスト者であるけれども、実質はそうではないというべき人・・・。私自身、自分がそうではないかという恐れも常にあるのですが…。

 洗礼というものは確かにお恵みであるけれども、その恵みの上に胡坐をかき、自分は良い人間、良いキリスト者だとうぬぼれていては、「異教徒」以上に異教徒の状態であると言え、ファリサイ派や大祭司のようにキリストから厳しい言葉を言われることになるのかもしれません。
 だからと言って、教会に行くことや洗礼が無駄だというものでは決してありません。が、同時に、教会に行ったり洗礼を受けたりしたからといって、それがキリスト者の本質でもないということでしょう。
 こう考えると、「無名のキリスト者」という概念は、非キリスト者のみにかかわるものではなく、キリスト者である者にとってもまた重要な示唆を与えるものなのです。

今回も、読んで下さって、どうもありがとうございました。

追記;ところで、聖書の言葉にそれなりの解釈は必要だとしても、極端に変な解釈をする宗派もあるようで、そこら辺の兼ね合いは難しいところです。
 レビ記の「血を飲んではならない」を「輸血をしてはいけない」と解釈するなどは、私は正直バカげているとすら思ってしまいます。(カトリックや多くのキリスト教宗派においては、この個所は「命を大事にしなさい」という意味だと解釈しています。)

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