「罪の許し」~告解という制度

まじめな教義・聖書の話

こんにちは。

私は以前、カトリックの学校に行った非信者の人に、
「本来、許しっていうのは、神父様だか誰だか関係ない人に告白して、許しますとか言われて勝手に一人で満足するようなもんじゃないでしょ。その傷つけた相手にちゃんと謝って、その人に許してもらわないと、許されたなんて言えないのよ。そういう意味で、カトリックの告解って、本当に馬鹿らしいと思う」
と言われたことがあります。

 これは、ものすごく、もっともなことだと思います。

 カトリック信者であっても、子供の時、もし成人洗礼の方であれば求道中に、疑問に思う事柄ではないでしょうか。それどころか、むしろ、もしこれをそのまま鵜呑みにする人がいたら、ちょっと大丈夫?と言いたくなるような事柄かもしれません。

 実際、もしも、その相手の傷つけた方に、しようと思えば謝罪ができるのに謝罪せず、償いもせず、ただ遠くの告解室で、その相手の方のことを知らない神父様に一方的なストーリーを告白することで、自分は許された、もう潔白だ、と簡単に罪悪感を捨ててしまうのを許すものなら、そんな告解の制度はむしろ害悪のほうが大きいと言わざるを得ません。

 しかし、カトリックの告解(罪の許し)とは、本当に、そういうものなのでしょうか…。
 
 カトリックの告解の歴史や神学的説明を概観することは、私の力量では知識・能力ともに足りず、とてもできません。
 そこで、本稿では、上記の問いに対する答えのみを、できる範囲で述べたいと思います。

「公に犯した罪なら、公に償いなさい」

 これは、ある神父様が、「もしも告解室で罪を告白されて、それが公的な罪であったら、どう言うか」と問われて、返した答えです。
 それが私的な罪であれば私的に償うように促す、ということでもあります。また当然、公的な罪であれば、公的な償いが求められます。
 つまり、告解の最後に宣言される「罪の許し」と「償いの祈り」は、神との関係においての許しであり償いであって、この社会においての許しや償いとは、また別物であるということです。

 自分が向かわなければならない社会的な償いが、たとえ死刑だとしても、どんな罪びとをも受け入れてくださる神への信頼は、死刑を受け入れることを助けてくれるかもしれません。
 相手に謝りに行って、罵倒されても、神から罪人たる自分が受け入れられているという思いがあれば、それを当然のこととして受け取め、耐える力を得られるかもしれません。
 罪の許しによって得られるものは、こうした励ましであり、神への信頼です。
神が、こんな私でも許してくださる、という信頼を、はっきり上長から言葉にしてもらうものです。

 もちろん、そうしたものは、本質的には、告解という制度によらずとも得られるものですが、弱い人間である私たちにとって、何らかのハッキリした言葉やしるしがあることは、時に力や慰めになるのではないでしょうか。

ですから、少なくとも、それによって、被害を与えた相手の方や、社会への償いを免除するものではありません。これを、信者たちは常に忘れずにいる必要があります。

信者の罪の告白に、どの程度の真実性が求められるのか

 これは、はっきり言って、「その信者が思う真実」で良い、としか言えません。

それが、客観的な真実とほぼ同じ場合もあれば、ものすごく違う場合もあると思います。ものすごく違う場合の中にも、それが意図的に違うように言われた場合もあれば、意図的でなく、本当にそう信じて言った場合もあるでしょう。
 それでも、告解の場は、そもそも真実を究明する場ではないので、そこは告解の成立に関して問題ではない、と言えます。(ただし、意図的に違うことを言った場合には、それ自体がまた「罪」となるわけですが、それをどう自覚するかは個々人の問題です。)

 もしも、本当に告解が、何かの罪の存否を問うことが目的であるとするならば、そもそも告解者一人の話を聞くだけでは不十分であって、それに関わる他の人々の話が必要ですし、さらには証拠なども要るかもしれません。
 しかし、告解とは、その人がどのように反省しているか、という極めて主観的な思いをこそ聞く場です。ですので、実社会でいうなれば、罪の告白という体裁をとっていても、客観を明らかにする司法取り調べよりは、自分の内面を見つめるためのカウンセリングに近いとも言えそうです。

 しかし、やはりカウンセリングとも違い、そこで求められるものは、形而上学的なものです。つまり、神が許してくださっている、という、神以外の者は本来言えないはずの宣言です。
 ここには、キリストが使徒ペトロ(教会)に罪を許す権限を与えた、という信頼が土台としてあります。

実際上の緒問題

 そうした告解の制度ですが、諸問題もありつつも(近年はそれがクローズアップされることも多いようですが)、それが良く運用されれば、その共同体に好ましい結果をもたらします。
 たとえば、まだ告解が教会で制度化される前の大昔、ある修道院で、人格者の上長にそれぞれが自分の罪を相談する習慣ができ、その上長から正しいアドバイスを得ることで、修道者たちの精神状態がとても向上したという例があったそうで、それは告解の制度化の布石の一つとなりました。

金銭の介在や恣意的な運用

 しかし、それが正しく運用されない時には、やはり良くないことも起こりうるかもしれません。それは、人間の作る制度である以上、どんなものでもそうなのですが。
 たとえば、免罪符というのは、告解という制度とはまた別のものでしたが、性質的には似たものであると思います。
 当然のことですが、罪の許しというものに金銭が介在することなど、あってはなりません。それでも、教会という機関に、人々の精神的な安定や恐れを生み出す力があると、そのような濫用もありえます。
 また、本稿の最初で取り上げたような批判(相手に謝ることなくして、何が罪の許しだ、と)は、常に頭においておく必要があります。
私達は、相手の人への謝罪や償いを、告解によって捨て去ることはできないのです。

アドバイスとしての限界

 また、さらには、多くの神父様は、告解室で罪の告白を受けた時、それなりのアドバイスをなさることと思います。「公的な罪なら公的に償いなさい。私的な罪でも、できる償いがあればしなさい、謝罪もできそうならしなさい」と。
 しかし、世の中には、相手が知らないほうがいいことというものもあり、何でも相手に謝罪することが正しいとは言い切れない場合もあります。そして、そこらへんの機微をすべての神父様が察することができるかと言うと、微妙な場合もあるかもしれません。神父様と言っても、人間ですから、不器用な方もいらっしゃれば、世俗的にズレた方もいらっしゃるわけですから。

 ですので、こうした懸念から、あまり具体的なアドバイスはなるべくしないように、と神学校等で教えられているのではないかな、という雰囲気も感じます。すると、その結果、与えられるアドアイスが抽象的なものにとどまってしまい、実際的な手助けにはあまりならない、ということもあるかもしれません。

 これはもう告解の問題の範疇を超えてしまう気もしますが、不倫をしたことを、それを気づいていない配偶者に洗いざらい告白して謝るのがいいか、それとも墓場まで持っていく方がいいか、は、その場合場合によるわけで、そういうアドバイスをすることに特化しているのは、神父様よりもマリッジ・カウンセラーかもしれません。マリッジ・カウンセラーだって、どっちがいいかと本当に言える場合ばかりではないでしょう。
 また、子供の告解者相手に、「悪口を言った相手に謝りなさい」とアドバイスして、その子が、悪口を言われたことに気づいていない相手の子にわざわざ悪口を告げて謝ったら、それはそれで双方にとって大惨事になるかもしれません。

 つまり、告解は、実社会的な効能というものは、限定的であり、あくまでも第一の目的は霊的なものだということです。

守秘義務による犯罪隠匿

 また、近年のカトリック教会の性的虐待などの問題に関し、性的虐待が告解室で告白された場合、それを聞いた聖職者の守秘義務は解除されるべきだ、という議論があります。
これは、実際オーストラリアなどの一部の州で立法化されたこともあるようです。

 たとえば、ある神父が、児童に性的虐待をしたことを、他の神父に告解してしまうと、告解を受けた神父は守秘義務のためにその罪を告発することができなくなり、そのために結果として、犯罪隠匿のための手段として利用されることもあり得ます。
 告解されずに、告解場以外の場で性的虐待に気づけば、告発することもできたのに、それを先に封じる手段として使われるわけです。

 これは、本当にもどかしい問題です。こういう悪用をする聖職者や信徒がいるということが、一番の問題であるし、性的虐待を許してはならないということには同意しますが…。

 これは、私としては、肯定も否定も、簡単にはできません。 
 ただ、守秘義務が解除されるとなると、告解室で語った罪状が自動的に警察への罪状となるわけで、宗教的な罪の許しとはまた違った性質のものになってしまうので、神との関係を軸とするこの制度において、それはどうだろうか、とは思います・・・。
 
 ここで、告解の守秘義務について、少し捕捉します。
神父様は、告解室で殺人を告白されても、出頭することを促せるのみで、通報はできません。それが告解の幹を為す守秘義務です。だからこそ、信徒は、きわめて個人的な罪でも、恥ずかしい罪でも、大きな罪でも、告解室でなら信頼して言おうと思うことができます。
 告解室で殺人犯から殺人を告白された神父様が、逆に殺人犯からその殺人の罪を着せられるも、守秘義務を守って沈黙を守り、長く服役したという事例もあります。(この場合は数十年たって犯人が自白し、名誉が回復されましたが、回復されないままで終わった事例というのもあるのかもしれません。)

 このように、残酷な事態をも、悪用すれば招きうる制度です。
神父様方は、告解室で何を聞かなければならないのか、恐怖を感じられる時もあるのではないか、とたまに思います。
 しかし、それが、神から人の罪を許す権限を委託されるということの重みだと思います。

今日も、読んでくださって、どうもありがとうございました。

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