ペトロへの問い

まじめな教義・聖書の話

三度の問い

 復活の後、キリストと弟子たちが食事をしたとき、キリストは、3回ペトロに問いかけられます。「わたしを愛しているか?」と。(ヨハネ21.15)
 三度「わたしを愛しているか?」と問いかけられ、ペトロは三度「はい、主よ、わたしはあなたを愛しております」と答えます。
 これは、単に3回同じ質問をくり返したように見えますが、実はそれだけの意味ではなかったようです。今日はこれについて書きたいと思います。

翻訳の難しい「愛」

 日本語では(英語などでも同様のようですが)、この三度の質問はすべて「わたしを愛しているか」と訳されています。
 しかし、新約聖書が書かれた古代ギリシャ語では、この三つの問いは同一ではありませんでした。というのも、現代では「愛」と訳される語が古代ギリシャ語には複数あり、それらがかかわっていた会話だったからです。
 以下、古代ギリシャ語の愛について述べます。

エロス

 「愛」と訳される古代ギリシャ語のなかで、一番有名なものが「エロス」ではないでしょうか。現代では、一般に性的なひびきのある語ですが、本来は性愛のみならず、相手からの愛を求め、自分の愛が受け入れられなかったら感情的に悲しく思うような、人間的な愛一般をさす語でした。

アガペー

 次によくつかわれる語としては、「アガペー」があるかと思います。エロスの愛が人間の愛とされるのに対して、こちらの愛は神の愛とされます。
 無条件の愛であり、相手から求めない愛です。(もっともこの二者は全く相反するものではありません。詳しくはこちら→神はなぜ人をむりやり救ってくれない?

フィリア

 そして、愛と訳される三つめの語に「フィリア」があります。これは、求める愛とも無条件の愛とも違い、たとえば、特別な友人や家族の間などであらわれうる人間的だけども麗しい感情、尊敬とか友愛とかの念をもって相手を大事に思う愛です。
 高い次元に上ったエロスと似ているところもあるのですが、違うのはそれが一対一とは限らないところでしょうか。
 エロスの愛はあなたとわたしが向き合う愛で、キリスト教が一神教であることやキリスト教の一夫一妻制はその型取りでもあるとされます。しかし、フィリアの愛は相手のフィリアがほかの人にも向いていても悲しまず、それを喜び、共有しあいます。

 このように、現代で愛と訳される語は少なくとも3つありました。キリストとペトロの会話には、このうち二つの語、アガペーとフィリアが使われています。再び二人の会話に戻りたいと思います。

二人の会話

ヨハネ21‐15の会話です。
「ヨハネの子シモン(ペトロのこと)、あなたはわたしを愛して(アガペー)いるか」
「はい、主よ、ご存じのように、わたしはあなたを愛して(フィリア)おります」
「わたしの子羊を飼いなさい」

「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛して(アガペー)いるか」
「はい、主よ、ご存じのように、わたしはあなたを愛して(フィリア)おります」
「わたしの羊の世話をしなさい」

「ヨハネの子シモン、わたしを愛して(フィリア)いるか」
「主よ、あなたは何でもご存じです。わたしがあなたを愛して(フィリア)いることは、知っておられるはずです」
「わたしの羊を飼いなさい」

 一度目、キリストはアガペーの愛で愛しているかと尋ねます。
 が、キリストの受難の際に威勢よく裏切ってしまったペトロ(三回もあんな人知らないと断言してしまった)からは、アガペーで愛しているとはおこがましくて言えない、そんな気持ちが伝わってきます。
そのため、ペトロはフィリアであなたを愛していると答えます。
 しかし再度、キリストは同じ質問をされます。わたしを愛して(アガペー)いるか、と。
ペトロはまたもやフィリアで答えます。
 なんだか、かつてのペトロとはずいぶん違うようです。

ペトロの葛藤

 以前のペトロは、もっと無鉄砲で、思ったことをすぐ言うような性格だったようです。
 キリストが来たる受難と復活について語ると、キリストをわきに連れて行って「そんなこと言うもんじゃありません」といさめようとしたり(マルコ8.32他)、
 キリストから「あなたは三度わたしを知らないというであろう」と予言されたときには、「たとえみんながつまづいたとしても、わたしはつまづきません」「たとえ、あなたといっしょに死ななければならないとしてもけっしてそんなことは言いません」と言ったりするなど(マタイ26.33他)、ある意味ビッグマウスっぽいところがありました。
 さらに言えば、キリストをいさめようとしたさいには、キリストから「サタンよ退け」とまで言われてしまうのにあまり堪えていない感もあり、
打たれ強いというか過ぎたことをくよくよしないというか、愛すべき人間ではあったけれどもあまり思慮深くはないような印象もある人物でした。

三度目の問い

 しかし、実際に自分が裏切ってしまったことで、そのペトロは自信を失いキリストの問いに正面から答えることができなくなっていたのです。
 キリストの問いに対して2回も、「わたしはあなたの期待されるようなことはできない」という意思表示をしてしまったペトロに対して、キリストはどうなさったのでしょうか。叱るか、さとすか、他の人にたずねるか…。
 そのどれでもありませんでした。キリストは、ペトロのところにまで下りてこられます。あなたがそう言うのならそれでいいよ、と。それが三回目の質問です。

わたしを愛して(フィリア)いるか。
はい、わたしはあなたを愛して(フィリア)おります。
わたしの羊を飼いなさい。

三度目、キリストの譲歩によって、ようやく二人の会話はかみあうのです。

受容

 キリストは、そのままのあなたでいいよ、というメッセージをペトロに与え、なおかつ「わたしの羊を飼いなさい」とペトロに重大な役目を与えられました。
 神聖さにおいて天才肌という感じのヨハネではなく(実際3人のマリアとともに十字架の下に立った唯一の弟子がヨハネだった)、なにかと突っ込みどころの多かったペトロを選ばれたのです。

 この人選は、神の人間に対する愛情を表しているように思われます。もちろんヨハネはヨハネで、キリストにとって特別に近い友人でした。が、一方で神は不完全な人間にこそ目をかけてくださりもします。

 また、弟子たちは一度はみな逃げたので全員が裏切ってしまったと言えるわけですが、
ペトロは特に盛大に裏切ってしまった(人がたくさん集まっていた大祭司邸の中庭で三度も大声で言ってしまった)のですから、他の弟子たちも信者たちもそれを知っていたはずです。
 そうした状態で司牧のスタートを切らされたペトロはある意味気の毒な感じもしますが、それはかえってへりくだった指導者となることにもつながり(たまに生来の頑固さが出てしまったようではありますが)、
殉教でその生を終えるまで任務を立派にやり遂げました。
 うらぎりも過ちも、本人がそれを悔やみ、神に任せれば、むしろより良いものを作るピースの一つへと変えられるということでしょう。
 そして、それを体現していた人間的なペトロは、さぞかし魅力的な指導者であったろうと思うのです。

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