第九戒「隣人の妻を欲してはならない」~カトリックにおける性の取り扱い

まじめな教義・聖書の話

よこしまな情欲を禁じる第九戒

性の否定?

カトリックにおける第九戒は、「隣人の妻を欲してはならない」です。
 この元になった旧約聖書の箇所は、「隣人の家を欲しがってはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ロバなど、隣人のものは何一つ欲しがってはならない」(出エジプト記20,17)のようです。
 ちなみにこの部分は、第九戒「隣人の妻を欲してはならない」だけではなく、次の第十戒「隣人の財産を欲してはならない」にもつながっています。

 この第九戒の怖いところは、単に「不倫してはならない」と言っているわけではないということです。不倫という実際の行動に起こすのはもちろん、そう心で願うのすらダメ、ということ。
 そういえば、新約聖書においては、「情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫の罪を犯したことになる」とされますね。
 行動に起こしていなくても、思っただけでもダメだとは、何とも厳しく思えますし、そうなるともう私たちの性衝動の否定、ひいては性の否定ではないかとすら思われてきます。

 実際、カトリック教会は、人間の性的な部分を罪と見なした時期もありました。
現代ではどうなのでしょうか。 

現代の教会のスタンス

 現代、カトリック教会は、この性に関わる第九戒に関し、
「情欲は最初の罪の不従順(アダムとエバの…)に由来する…(中略)、
…そして、欲望自体は罪ではないが、罪に陥る傾向を人間にもたらす」(カテキズムn.2515)
と述べています。

 つまり、現代の教会は、「欲望自体が悪いものだというわけではないが、しばしば罪へのきっかけとなることがある」と考えているにとどまり、かつてのように、人間の肉体性そのものや、性的欲求そのものを罪として扱っているわけではないということです。

 それどころか、私はかつてサレジオ会の日本管区長様が、「性は聖なるもの、神が作られた良いものです。もし、性的な問題で教会から離れてしまう人がいれば、それはとても残念なことだと思います」というようなことを述べられたのを聞いたことがあります。
 ですから、今のカトリックは、ある意味で、性を素晴らしい賜物として、むしろ礼賛しているとすら言えるのではないかと思います。

「性」の扱いづらさ

 しかしながら、性を完全に人間の自由にしていいものかというと、やはりそうではないようです。
非常に聖なるもの、良きものであるにもかかわらず、扱いを間違えるとしばしば罪へのいざないとなる、諸刃の剣のようなもの。
 考えてみれば、人間を生み出すものですものね。人間は神が作った良きものでもあり、同時に罪深きものでもあるのですから。

 さて、これに関し、教会は、「性的欲求」の中でも、真の尊敬や愛情の伴わないものを「情欲」として、私たちが楽しむべき本来の良き性と分け、避けるべきものとしてとらえています。
 ですから、現代のカトリック教会が性を礼賛する部分があると言っても、現代の一部の人々が言うような、「愛情がなくても、つかの間の関係でも、合意があって犯罪行為でなければすべてOK」というような、ほぼ無条件の性の礼賛とは、やはり一線を画します。

負け戦でも日々挑む

性は人間の理性より強く、人はかんたんに負けがち

 とは言え、「情欲を避けろ」と言われても、多くの人間にとって、それは簡単に避けようとして避けられるものでもないだろうと思います。
 しかしそんな時に、避けることのできない自分はダメな人間だ、とか、罪深い者だ、と絶望してしまうのは違うようです。また同時に、どうせ無理なら自由奔放に生きよう、というのも結局は悪い方向へ坂道を転がることになると思います。
 そのどちらも、私たちの感覚ではとても理解できるものですが、実はむしろ人間の良心を利用した狡猾な悪魔のささやき的なものではないかと思います。

霊的戦い

 しかし教会は、そんな「情欲」にとらわれる私たちの心の揺れについて、
「私たちが日々経験する霊的戦いの一部を為す」(カテキズムn.2516)
と言っています。
 つまり、カトリック教会のカテキズムは、私たちがそれを日々経験することを、当然のことだと言っているのです。

 ですから、それを心に感じただけで、あなたの心は汚れている、というようなものではありません。
 他の身勝手さや傲慢など多くの罪と同じように、どんどん私たちの心の中に浮かんできてしまう、でもそれ自体は仕方がない、それに勝つときもあれば負けるときもあるけれど、それでもとにかく、それと日々向き合い戦っていきましょう、と言っているようです。

 その戦いを放棄することがあれば、それはそれこそ本当に避けることを放棄した、となるのだろうと思います。

第九戒「他人の妻を欲するなかれ」

実は、どう避けるかのアドバイスでもある…

 さて、最初の第九戒に戻ってきました。

 この第九戒が禁じているのは、そうした内面の情欲の問題と、情欲からつながる実際の悪い関係、つまり不倫です。
 しかも、最初にも言及したように、「他人の妻と寝るなかれ」ではなく、「他人の妻を欲することなかれ」ですから、行動に起こさなくても、それを思うだけで良くない、ということです。

 これは、とても厳しい教えのようにも思われますが、そうではなく、実は、「罪を避けようとするだけではなく、罪の機会をも避けようと努めなさい」ということだとされます。
 そして、それは、「避けるための実践的なアドバイス」でもあるのです。

 実際、暴力でも、詐欺でも、盛り上がった悪口でも、好ましくない性行動でも、その罪の目前にまで来てしまうと、踏みとどまるのがより難しくなるものです。性的衝動などは、その中でも特にそういう傾向が強いかもしれません。
 しかし、だから私たちは性に対して完全に無力かというとそうではありません。通常はそこに至るまでに何ステップもあります。
 ですから、なるべくその早い段階のうちに、何度も踏みとどまろうと努めていれば、その最悪のところまでは行かないですむのではないか。
 これが、罪だけでなく、罪の機会も、の示すところだとされます。

 このように、この「心で思うだけで罪」という言い方は、単に心の動きだけで断罪する意味のない厳しさではなく、その事前のステップから警戒しなさい、という戦略です。

罪のみならず、機会も~性依存プログラム

 そして、実は、これはとても理にかなったことです。
例えば、性依存症の人がそれを克服するためのプログラムで習う内容として、その「避けたい性的行動の引き金となる環境だとか要因だとかをあらかじめ排除する」ということがありますが、それと極めて似ています。
 もし、あなたが混んだ電車に乗ったら痴漢をしたい衝動にあらがえなくなる犯罪者であるのなら、電車の中でその衝動と戦う以前に、まず電車に乗らないようにする。
 それは、お金や時間が余計にかかるかもしれないから、あなたにとってある意味で損だし、もしかしたら他の可能性をも失わせるものではあるかもしれないけれども、それによって最悪の行為は避けることができるかもしれない。

 このように実際に何かの犯罪に走る人は多くはないと思いますが、なんらかの内面の戦いは、私たちの多くが日々体験していることだと思います。
 ですから、それは、私たちの弱さを知っている神からのアドバイスです。

 新約において、キリストはさらにこう言われています。
「情欲を抱いて女を見る者は、誰でも、心の中ですでに姦淫の罪を犯したことになる。
もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して投げ捨てなさい。

体の一部を失っても、全身を地獄に投げ入れられない方がましである」(マタイ5.28-29)

 今日も、読んでくださってどうもありがとうございました。

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